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「カラーダイヤモンド専門店 コズミック」店主によるカラーダイヤモンドブログ
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ダイヤモンド今昔物語ーその11
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         ―前回の続き―

     

    198X年の新年早々、原田商事大阪支店の矢沢克彦は、大丸心斎橋店“中2階”にある宝石売り場奥の事務スペースに来ていた。大丸心斎橋店のレトロな建物は、明治の終わりごろアメリカ人建築家によって設計され、20年以上もの歳月を掛けて昭和初期に完成したという歴史的価値の高い物であるというだけではなく、天井、窓、壁面、床にはステンドグラスや大理石、レリーフなどが装飾された、いわゆる“アールデコ”で、芸術性にも優れた建造物と言えた。当時、初めてこれを目の当りした大阪の庶民にすれば、いきなり異国が現れたような“当惑感”とでも言おうか、この建物の中に入ることは随分と敷居の高いことであったに違いない。しかし、当時を知らない矢沢などの若い世代にとっては、入り組んだ通路や構造は“芸術的”と言うよりも、分かり難くて不便と感じるだけであった。特にこの、毎週のように出入りしている宝石売り場には大きな違和感を覚えていた。天井が異様に低く、ロッジ、コテージのロフトにいるような“中2階”の狭いスペースは、経験の浅い矢沢であってもジュエリーには相応しくないと感じるほどだった。この息が詰まりそうなほど窮屈なスペースに入って来た一般の消費者は、数人の店員に‘うやうやしく’迎えられることは確かであったけれど、いつここに来ても、そんな酔狂とも言える“お客様”の姿を見たことはなく、もし何かの間違いでこのスペースに来てしまったら随分と気づまりに違いないだろうと推測した。いずれにしても、大手デパートの建物内の『宝石サロン(宝石売り場)』で実際に買い物をしてお金を払うという消費者は極まれで、デパートの宝石部門の売り上げのほとんどは“外商”によるものであり、大手デパートの宝石売り場、宝石サロンは、『宝石も売ってますよ』という単なるポーズに他ならなかった。

     

    大丸心斎橋店は、大阪府内に存在する多くのデパートの中で一番の格式を誇っていた。年配の大阪府市民の多くは、お世話になった人や大事な顧客に対して大丸心斎橋店の包装紙で贈答することが肝要であると考えていた。そういう意味では、この冬、原田商事大阪支店が卸売先、得意先に送ったお歳暮は大いに失敗と言えた。大阪支店長の吉田は、大丸心斎橋店のすぐ北側に立地しているお隣さんの“そごう大阪店”の宝石売り場にテナントとして入っている三美宝飾と長年懇意にしていた。吉田は駆け出しの頃、新規卸売先の開拓をしていて三美宝飾を顧客に加えることに成功し、現在でも毎月1,000万円超の商品を買ってもらっていたのだった。デパートのテナントは、デパートの暖簾を借りた売上も多かったが、デパートとの付き合いには非常に神経を使うとともに掛かる経費も半端ではなかった。大丸心斎橋店の宝石部長は、あるテナントに格別の便宜を図る見返りとして、高級車を買わせたり、新築した自宅の住宅ローンの支払いを肩代わりさせている、というような黒っぽい噂が絶えなかった。そごう大阪店のテナントは幸か不幸か、そこまでするほどの利益を上げていなかったが、この冬、そごうの本部から『お歳暮3,000件』というとてつもないノルマを課せられたのであった。吉田は、三美宝飾の社長に呼び出され、『なあ、よっさん、頼むわ。この通りや』と頭を下げられ、10分の1300件を引き受けてしまった。約半分は大阪支店の通常のお付き合いの範囲で消化することが出来たが、残りの約150件は大変だった。大阪支店の従業員全員から白けた表情で見られ、支店長の吉田は自分が30件あまりを何とかするから、残りを他の12名で10件ずつ受け持って欲しいと懇願した。全員の大きな溜息が聞こえてきたが、なんとか忘年会までにclearしたのだった。それでも、大阪支店で一番若い矢沢には大変なことだった。10月に結婚式を挙げた友人がいたから、仲人さんと義理の両親へ贈ってもらって2件は直ぐに片付いた。その後が大変だった。他の友人たちは既にお歳暮の手配を済ませていたか、贈る習慣がないと言う者ばかりだった。最後の手段で、母親に土下座して頼んで5件は何とかなった。あとの3件は自腹を切るしかなかったが贈り先さえ思い浮かばなかった。まだプロポーズもしてなかったから、彼女の両親に送るのは控えた。仕方なく、ひとつは高校時代の担任の先生に送った。高校卒業後、同窓会も行かず、年賀状の遣り取りだけだったから、先生はきっと怪訝な顔をするのだろうと思った。もうひとつは自分自身に、最後の一つは千葉に住む姉夫婦に送った。届いたと思われた頃、姉から電話が掛かってきた、、『克ちゃん、どうしたん、何があったん? お金貸してあげたいけど、ウチの旦那もまだ20代やし、まとまった貯金できるほどのお給料もらってないねん・・・』、なんて要らぬ心配を掛けてしまった。実際の商売以外でホント下らぬことだった、気分の良くない年末だったと思っていたら、年が改まってもまだ続きがあったのだった。

     

    「おたくは、そごうに直接の取引口座できましたんか?」

    「えっ?」

    「いや、お歳暮おおきに。いつもの大丸やのうて、そごうの包み紙やったさかいにな」

    とかって、矢沢は、年始の挨拶で訪問した得意先の老舗宝石屋の‘ご隠居’に言われてしまったのだった。

    「わしら大正生まれのもんはな、大丸心斎橋の“しるし”もろたら嬉しおまんねや」

    と駄目を押され、なんと“ど厚かましい”と腹が立ったが、確かに同じ値段のお歳暮でも、そごうの包み紙では大丸の半額ほどにしか感じられないことも事実だった。

     

    原田商事大阪支店は、その“由緒ある”大丸心斎橋店の外商と、テナントを介さず直接の取引口座を持っていたのだった。大丸の取締役の一人が戦時中、原田と軍隊で同じ釜の飯を喰った仲ということだった。大丸側から原田商事に法外な要求がなされることもなかった。“利権”の多い大手デパートとの付き合いは、業者にとっても諸刃の剣であったから、“要求されないし、しない”という原田商事の大丸から一歩引いた姿勢は、大丸宝石サロンの者たちにとっても気楽な相手だった。矢沢は大丸に来ると、“パシリ(使い走り)”の域を出ない扱いだったが、商品を持って来て預ける、いわゆる“委託販売”ばかりであったから、特に何とも思わず、ゆったりとした気分で‘デパートの裏側’を観察していた。“表側”、売り場とは違って結構汚い言葉が飛び交っていたし、丁寧とか品があるとは間違っても言えそうにない女性社員の言葉使いが気になった。しかし、想像していたよりも活気のある“裏側”であった。

     

    「矢沢クンやったな」

    「はい」

    「これ、頼むわ」

    『宝石サロン 課長代理』という肩書を持った横井が、大きなルースケースに入った商品を矢沢に手渡した。2crtsのラウンド、FカラーのVS1だった。原田商事が大丸に委託した商品が売約になったということであった。

    「ありがとうございます」

    「いつもので」

    「承知しました。それでは10日ほど後に納品に上がります」

    「はい、よろしく」

    やりとりはこれだけだった。毎度、こんな調子だった。矢沢は指輪のサイズなど注文の内容を確かめ宝石売り場を立ち去った。2分と掛からなかった。原田商事が大丸の宝石サロンの“外商部隊”に預けているのは、0.2crtから0.5crtをシンプルな立爪枠に留めたBridal用のリング十数本と、1crt以上のルース約10個だった。委託品が売れると外商から電話が掛かってくる。リングは既に鑑定書作成が終わっているから、サイズ直しの依頼だけだった。ルースは鑑定書の作成と、ジュエリー加工だった。ジュエリー加工と言っても、1980年代においては、ほとんどがBridalリングと同様のシンプルな6本爪で、しかも馬鹿デカく、これで顔を引っかかれたら相当なキズになりそうな、凶器とも言える尖った立爪だった。矢沢は強烈に大きそうな2crtsの立爪を想像し、ブルンと身を震わせた。『いや、心配無用や。いずれにしろ、俺の結婚相手がこんな大きなダイヤ持つわけあらへん』と気が付き、安堵した。それにしても大手デパートの売り値は毎度毎度どうしてこんなに強烈なのかと感心しきりの矢沢だった。お客さんに見せた折りの値札がそのままになっていた。1,000万円近くだった。『半値で売っても500万円か・・・、凄いな』、矢沢はつぶやいた。198X年当時の2crtsのラウンド、F VS1の通常卸価格は、Makeの優れたベルギーもので約60万円/crt、ややMakeが劣るイスラエルもので約50万円/crtだったから、1個当たり約100万円から120万円だった。デパートの外商部の連中がダイヤの卸売相場なんて知っているはずがないし、デパートに委託する際には色々と手間暇掛かり、売り上げが立つまで時間も掛かるということで、原田商事から大丸への卸売価格は通常よりもかなり高いめ、多分150万円くらいだろうと推測できた。ちなみに、Good, Very Good, Excellent等のカットの総合評価が一般的になり、ラウンドブリリアントの価格がより複雑化するのはこれより数年後の事だった。1980年代、昭和天皇の最晩年近くまで、CutMakeの良し悪しは全て売買する業者によってなされていた。一般消費者は、鑑定屋のグレーディング(ソーティングや鑑定書)を見てもCutの良し悪しが良く分からない時代であった。と言うか、ジュエリー全般やダイヤモンドの歴史に比して、ダイヤモンドをグレーディングするということ自体が非常に新しい“コンセプト”であった。中央宝石研究所の創業は1970年で、AGTは翌71年だった。大阪支店が開設されたのは、両社ともに創業から数年後のことで、『つい最近』と言っても良いほどだったのだ。両社の大阪支店開設まで大阪にはダイヤをグレーディングする者がいなかったのかと言うと、そうでもなかった。OGS(Osaka Gem System)が心斎橋の大丸そごう近くに店舗を持って営業を始めたのは、AGTが東京に開業したのとほど同じ頃だった。今回、大丸が販売した2crtsは、そのOGSのグレーディングだった。OGSは、大阪の鑑定屋の草分け、一番の老舗と言っても良かった。矢沢がOGSの自動ドアの前に立ったのは、大丸を出てわずか3分後のことだった。

     

    OGSの創業者であり代表者の片山敏郎も色々とウワサの多い男だった。片山は、団塊の世代だった。同級生の数はとてつもなく多く、勉強にも運動にも特に秀でていなかった片山はいつもクラスの中で埋没したような存在だった。小学校から高校まで同じような環境で過ごし、関西の私大に進学しても自分と自分の周囲はあまり変わりがなく、『これでは一生こんな感じで終わる』と感じた途端に全てが嫌になり大学を中退した。これも同世代にはよくある話だったから我慢ならなかった。アルバイトして稼いだ金でアメリカへ渡った。これまたよくある話だったから、アメリカに行っても気分は冴えなかった。アメリカで何かを見つけねばならないと強く思った。『自分自身を見つける旅』とか言ってカッコつけている者がいたら殴りたくなった。片山は真剣に探していた。New Yorkから1カ月かけて西海岸に到達したが何も見つからなかった。旅費がなくなり、サンタモニカのモーテルのそばにあるレストランでアルバイトを始めた。片山の身体は小さくて童顔だったから間違っても敵視されることはなく、皆と直ぐに仲良くなれた。ある時、よく朝食を食べにくる若い女が、テーブルで一生懸命に何かのパンフレットを読んでいる折りに声をかけた。

    「どこかの学校に進学するのですか?」

    「そう、GIAよ」

    「それは自動車関係とか?」

    「そう、当りだわ」

    「面白そうですね、僕にも紹介してください」

    「いいわよ、数日後に連れて行ってあげる」

     

    こんな他愛ない会話が片山の“その後”を決めてしまうのだから、人生何が起こって何が幸いするか、本当に神のみぞ知る・・・

     

         ―続く―

     

     

     

     

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