Uki Dialy

「カラーダイヤモンド専門店 コズミック」店主によるカラーダイヤモンドブログ
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ダイヤモンド今昔物語ーその10
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        ―前回の続き―

     

    198X年、年明け早々のAntwerpダイヤモンド街の午後、ミカエルは、川島とアルノンの商談の成り行きを見守っていた。商談と言っても二人が直接に対峙する訳ではなく、ミカエルが電話でアルノンの指示を受け、川島に伝達し、また川島からミカエルを中継してアルノンにメッセージが届くという遣り取りだった。1980年代においては、このシステムがAntwerpなど世界のダイヤ市場で大きな役割を果たしていた。時には商品を所有する会社の社長なり責任者が直接に赴いてバイヤーと面と向かって“やり合う”ということもあったが、それは稀であった。お互い顔も名前も知らず、顔を見ないで商談するというシステム、ブローカーなどを仲介させた方が気を使わず言いたいことが言えるし、直接に言われると嫌な気分になることも誰かが間に立ってクッションになることによって、強い表現が柔らかくされるというような利点があった。

     

    7ロット、合計重量が121.54crts、合計金額約30万ドルになるBig Businessだった。このように複数のロットを同時に商談する場合、one by one1ロットごと別々に)か、combined(まとめて)か、ということは非常に重要だった。川島とアルノンの商談はcombinedでないと両者ともにメリットがなかったから、最初の段階でそれは合意済みであり、値段交渉する価格(単価、Price/crt)は一つであった。当初のアルノンの出値は$2,575、これに対して川島の指値は$2,300だった。アルノンの価格による合計金額は、$312,965.5、川島のものでは$279,542だったから、合計で実に$33,000以上の開きがあり、簡単にまとまるはずはなかった。

     

    「わしの指値、メチャメチャ売り手思いの優しい値のはずやけどなァ、そう思わんか、ミカエル君」

    「どうですかねぇ、現在の市場価格は$2,750から$2,800あたりでしょうから、うちの出値は凄く安いと思いますけども」

    「そりゃちょっと言い過ぎやろ。しかし、キミも言うなあ、18歳とは思えん。末恐ろしいわ」

    と言いながら、川島はまたタバコに火を付けた。川島のデスクの上の灰皿は既に一杯だった。日本人バイヤーのほとんどの者がタバコ片手に買い付けしているようなものだったが、中でも川島はヘビースモーカーだった。

    「キミも1本どうや。まさか、18歳やからアキマヘン、とは言わんやろ」

    川島がミカエルに向かってタバコの箱を差し出した。

    Thank you so much

    パッケージには《Mild Seven》と書かれていた。日本製なのだろう、くわえてみると、ベルギーのタバコのような“ゴロゴロ感”がなく、火を付ける以前に既に‘マイルド’な感じだった。ミカエルには喫煙の習慣はなかった。自分ではタバコを買ったことがなかったが、友人たちに勧められたら付き合って喫うことにしていた。タバコを喫っても別段、何とも思わなかった。それは一種の連帯感なのだろう、タバコの効用というのは確かにあるのだろうなとは感じていた。川島がミカエルにタバコを勧めたのは何かのサインなのかもしれないと思った。

     

    商談は、当初の出値指値から、アルノンが$2,495、川島が$2,385まで歩み寄って膠着状態が続いていた。ミカエルは、リップワース氏に商品を預けてランチに行って戻り、川島は、ブローカーたちの商品をチェックして一段落したところだった。

     

    「川島さん、You don’t have lunch?

    「ランチ食べると目や気持ちが変わってしまうのや。せやから、午前に見た商品は昼飯の前に決めとかなアカンねん」

    「それなら早くMazalしましょう、もう1時半過ぎましたよ」

    「まあそう焦るな。ネゴ(Negotiation)が早よ終わったら楽しみがなくなる」

     

     

    同時刻のBombay、スター・ブルー社の1室、インド時間の午後6時過ぎ、日本時間の午後9時半過ぎ、西川は、社長の原田からの直筆メッセージを読み返していた。ミランとランチに行っている間にスター・ブルー社に届いたFAXだった。

     

    『西川君、

     新年おめでとう。

     今年もよろしくお願いします。

     

     情況が厳しい中、お疲れ様。

     早速ですが、

    今年も、来月半ばに、海外4カ所の駐在員が一堂に会する駐在員会議をAntwerpで開催します。

    日本からは、私と松岡営業本部長、札幌、名古屋、大阪、福岡の各支店長が参加予定です。

    もし、日程その他でキミからの希望や要望があれば、1週間以内に総務部の井村君に伝えてほしい・・・・』

     

    いつもながらの淡々とした文章が綴られていた。買い付けに関して何も具体的な言及がないことに、西川は安堵の気持ちと不安な気持ちを同時に抱いた。このまま約1か月後の会議まで無為無策で過ごせるはずはなかった。何らかの成果、あるいは、現状打破の具体策を持ってAntwerpに出掛けないことにはただでは済まなかった。他の者はどうしているのだろう。西川は他の3人の駐在員の顔を思い浮かべていた。

     

    Antwerpの高瀬順は西川の同期だった。高瀬は英語がダメで、駐在員には最も遠い存在と思われていたが、原田社長は高瀬をAntwerp駐在員に抜擢した。卸売の営業をやっている時、高瀬が類稀(たぐいまれ)とも言うべき嗅覚で、次々に“売れるアイテム”を発見していたからだった。その高瀬に協力し、英語も買い付けも苦手な高瀬に代わって“売れるアイテム”を買い付けていたのが西川だった。西川も高瀬の見つけたアイテムの恩恵を受け、二人はお互いを補完する間柄で、プライベートでも非常に仲が良かった。New Yorkの遠藤武史は逆に‘英語屋’とでも言えそうな“いけ好かぬ”野郎だった。アメリカ人のように英語を操り、5番街47street界隈(この辺りにダイヤモンド取引所、ダイヤ市場がある)を大股で歩く‘NYかぶれ’だった。遠藤がNY駐在員に選抜されたのはもちろん英語力だけではなかった。このころ既に日本の宝石業界でGIA G.G.GIA宝石学修了者、宝石鑑定士)という存在が大きなものとなっていたが、GIAの鑑定書自体は日本ではまだまだマイナーな存在で、GIA付きの商品はNew York以外のところではあまり取引されていなかったのだった。特に、1crt以上のDカラーFlawlessInternally Flawlessというような物はNYでしか手に入らなかった。それらを日本市場に紹介して、徐々に日本市場に浸透させてきたのが遠藤だったのだ。

     

    Tel Aviv駐在員の泉嘉明も独自のアイテムを持っていた。ダイヤ裸石の卸売は彼の専門ではなく、専ら小売店やデパート相手にダイヤ製品の営業をやっていたのであった。泉は、芸術的には全く褒められたことはなかったが、絵心があり、時々思いついたようにジュエリーのデザイン画を描いていた。ある時、そのような一枚、変形物ダイヤをメインに使ったデザイン画が社長の目に留まり、社長や営業本部長の前で一生懸命プレゼンするうちに、『それほど自信があるのなら、自分で材料買ってこい』となったのだった。ダイヤ変形物と言えばイスラエルであった。全く想像すらしたことないTel Aviv出張となった。確かにTel Avivには、日本では考えられないほど安い価格の変形物が大量にあった。しかし、問題はそのMakeProportion)だった。いわゆる“いもMake”が圧倒的に多かった。“いも”とは文字通り薩摩芋やジャガイモのことであり、要するに形の整わない形状の美しくない変形ダイヤのことである。泉は、初めてTel Avivに到着し、生の商品を見て驚愕した。原石と変わらないのではないのかと思えるような、まさしく“Rough”と呼べそうな物や、“特厚、極厚”とも言うべきガードルの物やら、シンメトリーなんて無視しているかのような歪んだ物などのオンパレードだった。泉の初の海外の初のイスラエルの、記念すべき初日は“衝撃的な出会い”ばかりで、全く買い付けどころではなかったのだった。

     

    日本との時差が7時間、ベルギーよりも1時間早いタイムゾーンのイスラエルは午後2時半過ぎだった。Tel Avivの泉は遅い昼食を終えたところだった。泉もまた、何時間か前に受け取った原田社長からのメッセージを思い出していた。

    「あれからもう5年か」

    つぶやいた泉に、向かい合って座っていたアヴィ・ダンシガーが反応した。

    What?

    「いや、独り言だ」

    アヴィ・ダンシガーは泉の仕事のパートナーとも言うべき存在だった。泉はだいたいいつもアヴィがマネージャーを務めるシェリー・ダイヤモンドのオフィスで仕事していた。Tel Avivのダイヤ市場は、荒れた砂漠を整地した広大な敷地に建つ2棟の高層ビルから成っていた。この日のランチは、そこからほど近いイタリアンレストランだった。泉は、超高カロリーと感じるカルボナーラにウンザリとしていた。この一皿に一体どれだけの生クリームとチーズと卵黄が含まれているのだろう、とか考えるととてもじゃないがフォークを使えそうになかったから、日本の‘おせち料理’をイメージしながらの食事だった。イスラエルにしては寒く、しかしイスラエルらしい荒れた天候だった。外は横殴りの雨だった。体感気温は日本の冬と変わらない気がした。泉は、横の椅子に掛けてあったモスグリーンの革ジャンの袖に腕を通しながら店を出た。店はダイヤ市場に地下道で繋がる小規模なショッピングモールにあったから、雨に濡れることはなかった。

    Excuse me?

    声を掛けられ、振り返ると軍服の男が立っていた。ライトブルーのベレー帽を被っている。イスラエルの兵士ではないようだった。軍服には国連のマークと、どこだったかヨーロッパの国の国旗が付けられていた。中東に派遣されている国連平和維持軍所属の者に違いなかった。

    「なんでしょう?」

    「この近くにPost Officeはありませんか?」

    「えーっと、郵便局、郵便局、どこだったかな?!」

    そう言えばあまり郵便とかって使わないなと考えていたら、少し遅れてアヴィが店から出て来た。

    「アヴィ、郵便局を教えてやってくれ」

    Sure、おっとポーランドの兵隊さんか、会えて嬉しいよ、俺の両親も東欧からの移民なんだ」

    アヴィは丁寧に道を教え『Good Luck』と声を掛け、ポーランド兵とガッチリと握手して別れた。イスラエルならではの風景だった。有史以来、この界隈が平穏であったことはほとんどなく、また、1948年の建国以来、常に周囲を敵に囲まれてきたイスラエルではあったが、1990年に勃発する湾岸危機少し前の、奇跡的とも言える平和な時だった。

     

    アヴィのボス、ラン・ユーバルはイスラエル屈指のダイヤモンド研磨工場を持ち、世界各地からダイヤ原石を買ってCut & Polishしていた。内外に幅広く多くの売り先を持つ極めてアグレッシブな経営者だった。以前はDTC(De Beers)のサイトホールダーでもあったが、DTCの締め付けに反発し、サイトホールダーを返上して、より自由な原石の取引を楽しんでいた。ユーバルはいくつもの会社を経営していて、シェリーダイヤモンドはその中の極めて小さな存在のようだった。泉がユーバルと会うことは滅多になく、ユーバルは月に1度くらいフラリとやってきて、泉に自らの武勇伝を語った。信じ難いような古い話もあったが、ユーバルなら確かにやったに違いないと思われたのは、イスラム革命前のイランに大量のダイヤを売り込んだ話だった。イランのパーレビ王朝はイスラエルダイヤモンド産業の一番の顧客だった。『そりゃもの凄かった、今のアラブの富豪なんて当時のパーレビ国王に比べたら“ガキの使い”のようなもんさ』、なんて言っていた。“ガキ使”とは、ちょっと言い過ぎではと言おうとしたが、黙って聞いていた。『テヘランに行く度に、バケツ1杯分くらいの量の高品質の大粒ダイヤを買ってもらっていたよ』、なんて聞かされたら、『す、すごいですね』としか言えなかった。極め付けの話は、ホメイニがイランに帰国してきて“いよいよ”という折り、パーレビ王朝の断末魔でのユーバル氏のテヘラン脱出劇だった。

     

    『パーレビ王朝に繋がる富裕層はイランから脱出しなければ革命政権に罰せられるに違いなかった。だから彼らは先を争って手持ちのお金を大粒ダイヤと交換してイランから出て行った。大量の札束抱えて亡命出来ないからな。お蔭で、俺の乗るはずの飛行機の席が彼らに横取りされてね、テヘランの空港で丸一日近く待たされた。もうダメだ、ラクダに乗って帰るしかないのかと諦めかけた時、ようやく席が取れた。空港が閉鎖される直前の“最後の国際便”だった。イランを脱出できればどこでも良かったが、なんと、行先はケニアのナイロビだったよ。Tel Avivに戻れたのはそれから5日後だった』

     

    そういうユーバル氏であったから、買えなくて悩んでいる時にはドンと背中を叩かれた。『泉さん、勇気を持ちなさい。そして自分自身を鼓舞するのだ。俺は出来る、俺は出来ると心の中で何度も言いなさい。そうしたら全てうまく行く』と、何度も言われた。『あんたみたいに成功できるのは100万人に一人だ!』と大きな声で叫びたかったが、こんなオヤジには何を言ってもまたドヤされ説教されるに違いなかったから、泉はひたすらSmileを浮かべるだけだった。

     

    「もう5年か」

    泉は先ほどの独り言をまた繰り返した。初めてイスラエルに来てから5年近くが経過していたのだった。当初は“箸にも棒にもかからない”と思われたTel Avivの変形物ダイヤだったが、テリの良い良質の原石から研磨されたダイヤが多いことに気が付いたのだった。とにかく歩留り重視のCut & Polishが、イスラエルのダイヤ産業の特徴であり、最大の欠点だった。優れた研磨職人も不足しているに違いなかった。泉の初回の買い付けは満足ゆくものとは言えなかったが、企画通りの製品にして何とか社長から合格点を貰えるほどの売り上げが出来、ある程度の手応えを感じた。初回は、ダイヤの場面が小さいことに目をつぶって、とにかく価格の安さを全面に押し出したのが成功した。しかし、それが何度も通用するとは思えなかった。消費者が飽きるより先に卸売先の仕入れ担当者から『もうやりたくない』と言われる方が早いだろうと推測した。『凄く安いけど、凄く場面が小さい』というのではなく、『普通に綺麗で安い』ジュエリーを売りたいと思った。前任のTel Aviv駐在員であった山本兜太に相談した。

     

    山本は泉に二つの提案をした。一つは、Tel Avivで買ったMakeの良くないダイヤをAntwerpに送って上手な職人にRecutRemakeさせること。もう一つは、Tel Avivの中で、原石を扱って研磨している業者に相談して泉の満足できるProportionの物をCut & Polishしてもらうことだった。しかし、“泉基準”とも言える新しいProductionを研磨してくれる業者はなかなか見つからず、とりあえずはAntwerpRecutした方が手っ取り早かった。Antwerpの研磨職人も数量が増えてくると嫌がり、『それでも』と、お願いすると工賃が高くなった。それではAntwerpで普通に変形物を買い付けるのと変わらなくなった。泉は諦めず、山本に必死で頭を下げて、引き受けてくれる業者を探してもらった。山本が出会ったのがアヴィであり、アヴィのボスのユーバルだった。

     

      ―続く―

     

     

     

     

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