Uki Dialy

「カラーダイヤモンド専門店 コズミック」店主によるカラーダイヤモンドブログ
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ダイヤモンド今昔物語ーその8
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        ―前回の続き―

     

    ミカエルが川島の前に商品を並べた頃、Antwerpから遠く離れたインド・Bombayは、ちょうどランチの時間だった。東京の大手ダイヤモンド輸入商、原田商事の現地駐在員バイヤーの西川亮輔は、取引先のマネージャーであるミラン・サダックとHotel Oberoiのレストランに来ていた。西川にとって、Bombayで迎える2度目の新年であった。原田商事は、世界の4大ダイヤモンドマーケット全てに社員を常駐させるとともに、絶えず社員を出張させ、1年中途切れることなく“鮮度の高い”ダイヤモンドの輸入に努めていた。AntwerpTel AvivNew YorkBombay、これら4つの都市に住んで、バイヤーを務めるということは、原田の社員にとって一番の誇りでありステイタスシンボルとも言えた。中でも、当然のことながら、AntwerpNew Yorkに駐在を希望する社員は多く、そこには、能力が高く、海外での経験が豊富な社員が抜擢されることが多かった。Tel Avivももちろん重要な市場であったが、中東の危険なエリアということもあり、赴任に消極的な者がほとんどで、Tel Avivに駐在しようと手を挙げる者は相当な野心家とも言えた。Bombayはその点、少し事情が違っていた。インドは、ある者たちにとって、魅せられた究極の地であった。インドに長く滞在したいがため、原田商事に入社しようと面接を受けに来る者も少なくなかった。西川も元々そんなような連中の一人だった。

     

    「西川さん、あなたはもうインド人とほとんど変わらないね」

    ミランは、西川がフォークもナイフもスプーンも使わず、インド人のように右手だけで食事していることを言った。

    When in India, do as the Indians do.When in Rome, do as the Romans do.郷に入らば郷に従え)ですよ。」

     

    西川は、毎月12度、ミラン・サダックとOberoiでランチして、友好関係を深めるとともに、会社からの意向を伝えていた。西川は1カ月の食事が全てインド料理であっても問題なく、この日もベジタリアンのミランに合わせて同様のメニューを選んでいた。原田商事のインド好きの歴代駐在員のお蔭で、ミランがマネージャーを務めるスター・ブルー社と原田との関係は極めて良好だった。如何にして相手の懐(ふところ)深く入り込めるか。ゼニや価格だけではないものの重要性を一番強く感じられるのが同じアジアのBombay市場だと、西川は考えていた。インド人は肌の色も顔だちも日本人とは全く違っているが、中国人や韓国人よりも日本的な感情を持っていることを感じ取っていたのであった。

     

    「ところで、ミランさん、今年のProduction(原石から裸石への生産)の量はどんなものでしょうか?」

    DTCDe Beers)の今年のサイト(原石の配給)は、ロシアものの問題もあって、Cleanishが大きな減少で、代わりに1crt以上の低級品が増える模様です。メレの供給量も10%前後増えると見ています」

    「それは良いことを聞きました。1crt以上の物もメレも、現状の分プラス増産分そのまま全部を弊社へ売っていただく訳にはいきませんかねぇ」

    「うーん、どうでしょう。現段階では、何ともお答え出来かねます」

     

    ミラン・サダックは、スター・ブルー社のオーナーの一族ではなかったが、ミランの父親が業界での豊富な経験を買われて社外取締役となり、オーナーの良き相談相手となっていたということで、ミランがスター・ブルー社に入社したのだった。それだけではなく、ミランは英国留学の後、アメリカに渡り、GIA1年間勉強したBombayダイヤモンド街の“エリート”とも言われる存在であり、30歳手前の若さながら、スター・ブルー社の営業、バイヤーへの販売を一手に取り仕切る“実力者マネージャー氏”であった。ミランのような若手の実力者はインドのダイヤモンド業界では珍しくはなかった。インド人の早熟度合いには驚かされるが、彼らは一様に短命であり、60歳を過ぎて若い頃と同様に毎日出勤して働いている者はダイヤ業界の経営者クラスには存在しないと言っても過言ではなかったから、逆に言えば、早熟である必要性があるのだった。

     

    西川は、自分とほとんど年齢の変わらないミランに常に圧倒されていることを感じていた。育った土壌が違うから特別なライバル意識は持たないつもりではいても、やはり同年代として、ある程度の悔しさもある。東京の本社から厳命されている事案、買い付け額の20%アップを目指して、なんとしてもミランから良い回答を貰わねばならないと思っていた。

     

    「ミランさん、御社の10分の1サイズ(平均0.1crt)の$400Price/crt)あたりの商品は非常に使い勝手が良いのです。これは毎月頂いている分の倍の量があっても楽に販売できると東京の営業が言って来ています。とりあえず、そのあたりからご協力いただけませんか」

    「ストレートの品質の物で、いきなり倍は無理でしょう、いえ、1.3倍でさえ難しい。原田商事さん以外にも同じような注文が来てますからね」

    「ならば、$425まで出しましょう、これで何とか現状の1.5倍以上の供給をお願いします」

    「困りましたね。まだ今年のProductionの片鱗も見えてないのに。」

     

    ミランの知的レベルは相当に高く、また、性格的にも変な駆け引きをするタイプでもなかったから、西川はこのあたりが今日の退き時と考えた。

    「それにしてもミランさん、ダイヤって面白いよねぇ。他の製品なら、数量を増やせば単価が下がるのに、ダイヤモンドは逆だ。こんなのダイヤだけだよね」

     

    「しかし、西川さん、御社のボスはまた一段と買い付けと販売のギアを上げさせているような気がしますが、何か具体的な目的があるのですか?」

    「流石にミランさん、鋭い洞察力ですね。実は原田商事が来年に創業30周年を迎えるのですけども、それとともに、東証2部上場を目指してましてね、そのためには年間の売上100億円以上が必要ですし、2年間の合計利益額が5億円を超えないといけません。これらの数字は達成可能なところまで来てはいるのですが、未だにClearしたことがなくてね、それで社長は激しく我々の尻を叩く訳なんですよ」

     

    創業30年を1年ちょっと先に迎えようとしていた原田商事は、業界ではかなり異色の存在だった。創業者の原田健太郎は、京大法学部卒の‘インテリヤクザ’だった。終戦の翌年3月、大学から放り出されるように卒業したが、敗戦後の動乱期には学歴は全く役に立たず、大阪の闇市で荒っぽいことをやって喰っていた。切れ切れの頭脳と度胸の良さで、いつの間にやらチンピラどもから『親分』と呼ばれるようになり、十数人の手下が出来てしまった。戦前から続く博徒系の“老舗ヤクザ”とは上手に棲み分け、時には“上納”して抗争にならないように気を付けた。たまに、愚連隊のような連中に命を狙われたりしたが、原田は京大剣道部の猛者であり、学徒出陣して砲弾をかいくぐり九死に一生を得ていたから、怖いものは何もなかった。襲ってくる暗殺者の一人や二人は簡単に退治していた。しかし、そのような生き方をずっとして行けるとは考えていなかった。平和な世の中となれば、自分たち新興勢力は老舗ヤクザから叩きのめされて存在できなくなるのは見えていた。

     

    終戦後の動乱が混乱となり、混乱が収束に向かい始めた折り、原田はきっぱりとヤクザから足を洗った。原田の下で組織をまとめていた者をトップに据え、原田は大阪から消えた。蓄えた金で東京に行き、金に困っている者から戸籍と名前を買った。原田健太郎は新しい自分だった。小さいながらも都心に住居を持った。これからは宝石の時代が来ると読んでいた。ダイヤモンドが有望だろうと確信し、宝石を生業にすることを決めた。関西イントネーションの言葉も封印して、関東人になりきろうとした。動乱を経て、混乱が続く東京には、平和が来ることが見えていたから、たくさんの人が東京に流入してきた。原田がどこの出身なのか誰も気にはしなかった。時おり、『どこのお生まれですか?』と聞かれることはあったが、その都度どこか適当な県名を言って、話をはぐらかした。

     

    上京して直ぐに東京都民となった原田だったが、直ぐに宝石を取り扱いし始めた訳ではなかった。生活に困らないほどのお金を持ってはいたが、宝石の仕入れには足りなかった。東京は活気にあふれていた。そして、全ての物資が不足していた。何を持ちこんでも売れそうだった。原田は、とりあえず何が手っ取り早くお金になるのか見極めた。そして、終戦直後、外地から同時に復員した者のことを思い出していた。池谷正造という神戸の時計屋の倅だった。敗戦時、原田は陸軍中尉で、池谷は上等兵だった。昭和209月、ふたりが神戸港に帰りついて別れ際、池谷は言った。

    『中尉殿、中尉殿は私の命の恩人です。私は神戸の“しがない”時計屋の跡取りですが、出征する直前、家内の岡山の実家の土蔵にたくさんの腕時計を隠してきました。命を救ってもらった御礼にそのいくつかを差し上げたく思います。1カ月ほど経った頃に中尉殿のご自宅にお伺いいたします。ご住所をお教えください』

    原田は、男として当たり前のことをしたまで、お礼なんて全く気にしなくても良いと言って住所を教えなかった。

     

    原田の実家は大阪府の北部、京都府との境の島本町だった。母親が兄夫婦と住んでいるはずだった。神戸港から直ぐに母には会いに行くつもりだったが、兄夫婦とは折り合いが悪く、一緒に住むつもりがなかったから、教えられる住所はなかったのであった。池谷は、『それでは、ご都合の良い折りに是非とも神戸のお店にお越しください』と言っていたのだった。それからもう数年が経過していた。時計が不要だった訳ではないが、恩着せがましく貰いに行くというのは性格的に合わなかった。神戸に行って池谷に会って、通常通りのお金を払って時計を買おうと思ったのだった。

     

    東京から夜行列車に乗って翌日午前に大阪に着いた。梅田駅から阪急電車に乗り、三宮で下車した。元町商店街に店があると言っていたから、注意深く歩いてゆけば見つかると思っていた。もし見つからなければ、何軒か質屋巡りをして時計を買い集めれば良いと思っていた。商店街に入って2分も歩かないうちに『池谷時計店』という大きな看板が見えてきた。“しがない”なんて、とんでもなかった、神戸元町の一番店かもしれなかった。店の前まで来て、原田は少し立ち止まり、中の様子を見た。ガラスが入った引き戸の向こうに懐かしい池谷の姿が見えた。接客中のようだった。視線を感じたのか、池谷が顔を上げた。原田と目が合った。一瞬ののち、池谷が目を見開き、駆け出して引き戸を開けて外に飛び出て来た。原田の右手を両手で握って涙を流し始めた。

     

    「中尉殿、やっと来てくれましたね」

    「おい、もう中尉ちゃうでぇ。恥ずかしいから、手握るのやめてくれ」

     

    敗戦間近の頃、原田と池谷はタイとビルマの国境付近にいた。原田が指揮する偵察部隊が米軍の攻撃に遭って、池谷が足を負傷したのだった。ジャングルの中で米兵から逃れ、他の兵士を本隊へと先に帰し、原田は池谷を背負ってジャングルを彷徨い歩いた。池谷は、何度も自分を置いて先に行ってくれと言ったが、原田は『アホなことを言うな』と励ました。二人には食糧もなく、もう歩けそうにないと思っていた時、原住民が前に現れた。殺されると覚悟したところ、目の前に数個のトマトを置いて立ち去っていった。二人はそれを食べて生き返った。その後、何度も方向を確認し、米兵をやり過ごし、三日間歩いて本隊に合流したのであった。

     

        ―続く―

     

     

     

     

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