Uki Dialy

「カラーダイヤモンド専門店 コズミック」店主によるカラーダイヤモンドブログ
見る人もなき山里の
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    三連休、いかがお過ごしでしょうか。

    『如何も何もないだろう』ってね、おっしゃる方も多いのではないかと思いますが、

    イベントや繁華街に行くことばかりが休みではございませんよ、

    “こんな時”ならではの過ごし方をするのが良い、と言いましょうか、

    こんな時ですから、通常では出来ないことをやってみようではありませんか。

    この前も申し上げましたが、

    ウッキーなんてね、先月の23日、天皇誕生日以来、電車やバスに乗っておりませんよ、すごいだろ! もともと行くとしても、南船場の業者のところか鑑定屋さんに行くぐらいでしたから、そういう用事を全部、『宅配便』で済ませることが何かもう当たり前のようになった観があります、、とにかく何でも送る、そして『お願い、送って〜』、って感じです。ですから、宅配便業者はさぞやまた忙しさに拍車がかかったのかと思って、この前、ヤマトのドライバー氏に聞いたのですが、『いや、別に。Amazonの荷物はアホくらいあるけどな』とのことで、皆さん割とご自身の足を使って動いていらっしゃるのかもしれませんな。

     

    近況といたしましては、、

    そうそう、『源氏物語』、与謝野本をかなり読み進めておりましたところ、何か物足りなさを感じ始めましてね、こりゃどう考えてもオリジナルの文章を何行か飛ばして現代語訳してるぞと、それでもスラスラと行けば問題ないのですが、不明な点、Storyが若干ながら無理があるのでは、と感じる点、何か所か出てきまして、PCで調べたりしているうちに、『与謝野本は“間違いが多い”』なんて言ってるコメントにも“ぶち当たり”、これはやはり世間で評判高く、昭和の時代にかなりの部数を売り上げたという“谷崎本”がよろしいのではないかという結論に至りまして、、、『谷崎潤一郎』訳の単行本の全11巻すべて買いましたーーー!

    Amazonの中古やけどね。

    全部で4,500円でした〜安い!

    これがもう新品のように綺麗でね、久々の良いお買い物と大満足しておりますよ。そして、一昨日から読み初めまして、『そうそう、これこれ』って感じ。読み始めて直ぐに、晶子さんはかなりの部分を“削って”現代語訳していたなと、改めて認識いたしました〜・・・しかし、なんでやろね、どうして省略しないといけないのか、ちょっと分かりかねますね、やはり晶子さんは多忙すぎたのかな、それとも、出版社からの要請か、あまり長いと売れない・・・なんてね。

     

    まあ、追々、“進捗状況”をまた皆さんにご報告申し上げます〜

     

    さて最近は、HPもヤフオクも、出品と言えば、短歌、俳句、詩、小説の中の美文、

    などなどを“駆使”いたしまして、何とか皆さんに感じていただこうと努めておりますけども、

    その“延長”とでも申しましょうか、日ごろウッキーが感じていることを短歌に乗せて語ってみたいと・・・・

     

     

    Let’s Go

     

         いたずらに 過ぐる月日は おもほえで

         花見てくらす 春ぞすくなき

          ― 藤原興風(古今集) ―

     

        ―ただ過ぎてゆく時は何とも思わないのに、

          花を見て暮らす春は少ないものだと思うー

     

    花を見て暮らす、カラーダイヤを見て暮らす、、そういう時って言うのは、いつであっても“春”なんですよね。ウッキーは、皆さんとは違って業者ですから、当然、カラーダイヤを見ると言ってもね、鑑賞という部分は少なくて、どうやって売るか、どうやってこのダイヤの美しさを掬い取る(すくいとる)か、ということを主に考えているわけですけども、やはり美しさというものをパッと見で感じられないことには前には進まない訳で、見た瞬間に『これはダメ、買わないでおく』という結論に達する商品は非常に多いのであります。それでも、多数の商品があるという状況は誠に嬉しいことでしてね、それらをどんどん見て行っておりますと、時間の経過は瞬く間、あっという間に買い付けの一日が終わってしまったということも過去には何度も経験いたしました、、、今は昔〜

    このところの商品の少なさ、、

    悲鳴を上げそうになっておりますよ、

    皆さん方の想像以上と申し上げておきましょう。

    そうなんです、

    “春ぞすくなき”と感じられる時ってね、ホント幸せな状況。

    今は・・・“ダイヤぞ少なき”〜

     

     

       春霞 たなびく山の さくら花

       見れどもあかぬ 君にあるかな

        ― 紀友則(古今集) ―

     

       ―美しい貴女は見ていても飽きることはないー

     

    UKI氏がカラーダイヤの商いを始めてからもう20年以上経過しておりますが、『あきない』ですね、ホント不思議なこと。数えきれないほどの商品を見てきまして、飽きないということはやはりシンプルに“綺麗”であるからでしょう。そうなんですな、綺麗だから飽きない商い。ですから、飽きてしまったアイテムも当然あるわけです、、申し上げましょう〜

     

    まずFancy Black

    これはダメですな、皆さんも単純に物珍しさで買った方もいらっしゃるに違いないけど、『まだ』という人はおやめになった方が賢明です。

    Fancy Blackの画像はホント簡単なのですよ、デジカメで撮って、PCの中で『色を削除』、これで終わり。ピント合ってるか、明暗はどうだ、暗すぎやしないか、光源のライトが強すぎるのでは、、なんてことを全く気にしないで良い、ただ色を消す、色がない透明感もない反射がない、これがFancy Blackの正体です。

     

    次に、Fancy BrownなどのストレートBrown系、

    これが何故ダメなのかと言いますと、ほめる言葉が思いつかないのですね、綺麗な言葉が乗らない、歌を乗せられないのです。だから、飽きてしまいました。

     

    そして、淡い黄色、Very Light YellowLight Yellow

    これらは綺麗なのも少なくはないのですけども、、時おり感じておりました、淡い黄色は広義ではカラーダイヤであるが、厳密に言えば違う、若いころ、ひょっとしたら今でもそうなのかもしれないけど、無色透明ばかり買い付けしていた頃には、Very LightLightの黄色を“そんな風”には呼ばなかった、、単に『色甘』と言ってたんですよ。『色甘(いろあま)』とは、本来、DEFGカラーのメインItemから外れる物のことで、Hカラーから下を指していたのですね、そこには、『IだろうがKLだろうが、Very Light Yellowであろうが、なんでもいいけど、とにかく“使えない”』、という意味があったのです。それがどういう訳か、いつの間にやらUKI氏たち自らVery Lightだの、Lightだのと言う“位”をつけて「市民権」を与えてしまった・・・・今から考えると、これは大きな間違いだったと、気が付きました、、決してUKI氏一人の責任ではないですけどね、、、そう、良く考えてみると言いましょうか、しっかりとYellow系のダイヤを観察してみれば、現在のFancy Yellowあたりの色味と彩度をVery Light Yellowとすべきなんですよ。そして、現在のFancy Vivid YellowFancyクラスからIntenseですね。いくらYellowがたくさんあると言ってもね、どうも現在のFancy Vivid Yellowの色味と彩度には納得ゆかないことを多々感じております。本当のVividなんてね、PinkBlueのことを考えてみるまでもなく、もっと“華々しい”もんじゃないかと。

     

    蛇足ではありますが、

    過去に何度も申し上げておりますが、

    Fancy Whiteもおやめになった方が良いと思います、

    これは取り扱ったことがないけど、単に“極度な曇り”というだけの物、GIAがそんな物にカラーグレードを与えたこと自体が間違っております。

     

     

       神代には ありもやしけむ 桜花

       今日のかざしに 折れるためしは

        ― 紫式部(新古今和歌集) ―

     

    ―どういうことか、初夏に行われる葵祭の日まで残っていた桜の花、それを勅使の少将の冠に差すためにお与えになる。こんなことは神代にはあったものだろうか。それにしても稀有なことであるー

     

    京都三大祭りのひとつ、葵祭は旧暦では4月中、現在では5月15日の年中行事です。

    しかしまあ、そんな折りにまで桜花が残っていたなんて、よほど冬の寒さが厳しかったのでありましょうか、いずれにしても、紫式部も驚くほどの出来事・・・

    初夏に見る桜花はどんなものでありましょう。ちょっと想像がつきません。手折って冠に差しこんでも、その日のうちに散ってしまうに違いないですね。なんとも儚い。

    神代には存在したかもしれない、伝説上の存在、

    そういうものとの出会いがあったら、、どんなにか興奮することでありましょう、

    例えば、Fancy Greenish Blueの、Greenishを取り去ったBlue・・・

    それって、Fancy Blueじゃないの?

    いえ、ちょっと違うのですね、少し違うのです。

    また、Fancy Purplish Pinkの、Purplishを取り去ったPink・・・・

    それって、Fancy Pinkやろ!

    いえ、わずかに異なる。

    意味不明。

    そうですね、これこそカラーダイヤ屋の意味不明なつぶやき。

    しかし、

    Fancy Grayish BlueからGrayishを取り去ったBlueがどんな色かと言いますと、

    それはもう紺色のような色なのですよね、どう考えても。

    そして、Fancy Orangy PinkからOrangyを取り去ったPinkがどんなものかと言えば、どこまで行ってもやはりOrangyの枠の中から抜け出せない、みたいなね、

    それはそれで良いと言いましょうか、現実の世界では“南アもの”Pinkがそんな感じで、それはそれはもう、ウッキーも大好きな色味で、艶もしっかりでありますが、やはりPinkダイヤなんですよね、そう、ホントPinkダイヤです、とことんPinkダイヤ、大そう美しい!

    それで何が不満なんだ?!?

    そこです、この世界、ファンシーカラーの世界というのは、あくまでもFancyであらねばならない、Fancy(幻想)を常に追い求めてこそ、現実に存在する色味に対して批評が可能となる、、、という気がしております。

    そこで、色々と想像いたします、Fancy Greenish BlueからGreenishを抜いたピュア中のピュアFancy Blueの色味を、Fancy Purplish PinkからPurplishを抜いたピュア中のピュアFancy Pinkの色味を。

     

    夢の中で紫式部と会って、彼女に聞いたら、

    『ああ、それやったら、こんなお色どす』、と指さし示してくれるのでありましょうか〜

     

     

         見る人も なき山里の 桜花

         ほかの散りなむ のちぞ咲かまし

          ― 伊勢(古今集) ―

     

    ―こんな寂しいところに咲いて、誰も見てくれない山里の桜よ。いっそ、ほかの花がみな散りつくした後から咲けばよかったのにー

     

    あえて何とは申しませんが、綺麗なのに、価格的にもそんなに高くはないのに、あまり注目されないと言いますか、我々も理由がわからないほどに“不人気”というItemが常にあります。“それ”は、手を変え品を変え、色々とトライしてみても、やはりダメ。そういう商品が、「日の目を見る」というこが絶対にあると信じておりますが、そうなったらそうなったでまたちょっと恐ろしい状況なのかなと言う気もしないでもない、“そんな日”が到来したならば、カラーダイヤを取り巻く環境は相当に厳しいに違いない、、、海外の業者に『あれほしい、これが良い』、とかってね、言える訳などなく、“あてがいぶち”〜

    『ほれ、今月はこれ売っておけ、売れねば、来月は何もないぞ』、とかって言われてね、

    『そんなこと言わねえで、おねげーしますだ、、』、とかって、額を地面にこすりつけるように懇願・・・・う〜考えたくもない!

     

    しかし、一方で、こういうことも言えると〜

     

          今日こずは 明日は雪とぞ 降りなまし

          消えずはありとも 花と見ましや

          ― 在原業平(古今集) ―

     

    ―私が今日こなかったら、明日は雪のように消えていただろう。たとえ、消えなく とも、美しい花として見られるだろうか(見られはしない)―

     

    プレイボーイ、業平さんならでは、と言えそうな歌ですね。もちろんのこと、花=女性、でありまして、もてない男としましては何かムカつきますね〜。

    求められてこその花、求められてこそダイヤモンド、

    注目もされず、相手にされず、それがどうして花なのだ、ダイヤなのだと。

     

    でもね、上記の業平さんの歌は、なんのかの言いながらですな、結局、“別嬪さん”と思って来ている訳でしてね、来た以上、偉そうに理屈こねるなとも言いたいですな。そう、結局、ダイヤにしても結果でしか判断できないというところがあります・・・

    全て市場が決めるのでありましょう。

     

     

    最後に、もう一つ・・・・

     

    まてというに 散らでしとまる ものならば

    なにを桜に 思ひまさまし

          ― 読み人知らず(古今集) ―

     

    ―散ることを待ってくれという要望に応えてくれるのであれば、何を好き好んで桜を愛するものか―

     

    ホントその通りで。

    皆さんがカラーダイヤを愛してくれるのは、カラーダイヤがどんどん減少して、あるItemに関して、その存在そのものが危ぶまれてきたからですね。

    こういう状況の折であるからこそ、ウッキーのような存在が必要なでありましょう〜

     

    頑張りま〜す

     

     

     

     

     

     

     

     

     

       

    | ukitama | - | 16:16 | comments(0) | - | - | - |
    ダイヤモンド今昔物語ーその17
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      1991117日、原田商事大阪支店の堂前は、BombayHotel New Oberoi のバーカウンターでスコッチのロックグラスを傾けていた。連れはおらず、ぼんやりと周囲を眺めていた。何か異様に興奮したような空気があたりを支配していた。その日の早朝、アメリカを中心とする多国籍軍がイラク空爆を開始、湾岸戦争の勃発だった。前年8月、クウェートを侵略占拠したイラク軍は、多国籍軍の圧倒的な戦力によって叩きのめされることは明日の日の出よりも明らかなことだった。ホテルのバーラウンジにいるインド人や外国人は快哉を叫び、陽気な声で語り合っていた。堂前は、特に反戦主義者ということもなく、反米でもなかったが、湾岸危機を“導き”、“予定通りに”湾岸戦争へと突入したアメリカの遣り口には何か釈然としないものを感じていたから、周囲の騒ぎには同調しかねていた。しかし、そんなことを言っても、ここでは相手にされないのは分かり切っていた。余計なことは一切言わなかった。

      「おかわり如何ですか?」

      バーテンダーに促され、同じ物を注文した。バランタインの17年ものだった。かつての英国植民地、さすがにスコッチは日本で飲むよりも圧倒的に安く、バーテンダーも日本のバーのように、『シングルですか、ダブルですか?』なんてケチくさいことは聞いたりはしない、しっかりとした量を注いで大きな氷をひとつ入れてくれる。日本のバーだったら堂前のような若輩者の給料では何杯も注文できないお酒だった。チェイサーには、ボトルに入ったソーダ水を頼んだ。ウィスキーがなみなみと注がれたロックグラスとソーダ水が静かに目の前に置かれた。バーテンダーと目が合った。40代半ばであろうか。何か話したそうな表情だった。堂前は、思わず言ってしまった。

      「戦争、知ってる?」

      待ってました、とばかりに話が始まった。

      「ちょうど20年前だ、1971年のことだ」

      「な、なにがあった」

      「パキスタンとドンパチやったんだよ」

      印パ戦争。1971年の印パ武力衝突は1947年、1965年に続いて3度目で、これによりインドから支援を受けたバングラデシュ(東パキスタン)が独立したのであった。

      「空爆されてヤバかったとか?」

      「奴らのヘナチョコ空軍なんて鳩みたいなもんだ。何機も撃墜してやったぜ」

      バーテンダーの口髭がピクピク動いていた、得意気な表情だった。グラスの水滴を布で拭いながら話は続いた。

      「俺は陸軍の機関銃手だったんだ」

      「機関銃で戦闘機が落とせるのか?」

      「口径が30mmの機関砲に替えてな、戦闘機が飛んで行く方向に弾幕を張るのさ。それでも簡単じゃない。俺は人一倍勘が良かったんだよ」

       

      堂前は男の自然な反応として、CNNのニュース映像で見たテレビゲームのような湾岸戦争よりも、俄然、印パ戦争に興味が湧いてきたのであった。

      「地上戦はどんな感じ?」

      「これを見ろ」

      バーテンダーが右手を目の前に差し出した。親指と人差し指の間が異様に盛り上がり、親指が少し変形しているようだった。

      「どうした?」

      「敵の銃弾が通り抜けた痕だよ」

      「恐ろしい! よくまあ、身体に当たらなかったものだな」

      「これのお蔭で今の命があるようなものさ」

      「どういうこと?」

      「当時はガンジス川の向こうは東パキスタンだったんだ。1971年の戦争は専らガンジス川東岸の戦いだった。川を越えて東パキスタンに進撃してしばらくは優勢だった。俺が戦闘機を撃墜したのもその頃だ。しかし、何日かすると激しい反撃に遭ってな、撤退に次ぐ撤退で、いつの間にか川を背に戦っていたよ」

      「背水の陣やな」

      What?

      「いや、なんでもない、独り言だ。しかし、敵の陸軍はヘナチョコじゃなかったのか」

      「俺の部隊が戦ったのは、奴らの最後の精鋭軍だったよ。忍者のようだった」

      「ホンマかいな」

      「いやホントだって。夜になって川を背にして休んでいる時、夜襲に遭ったんだ。『敵襲!』という声に飛び起きて機関銃を握った瞬間、この手に銃弾を喰らったんだ。後ろにふっ飛ばされて流れに落ちた。痛みと恐怖で流されるままになっていた」

      「どうやって助かった?」

      「ガンジス川の中州に流れ着いたのさ。俺の部隊は全滅だった・・・・」

       

      堂前は、熱心に語るバーテンダーの背後に当時の様子が映し出されているように感じた。バーテンダーはまだ喋り続けていたが、堂前の耳にはもうバーテンダーの声が入ってこなかった。所詮、過去の物語なのだ。あと10年で21世紀だ、日本も昭和から平成となって、全てが塗り替えられて行くような気がしていた。ダイヤモンドのビジネスだけが昭和の時代のままであるはずはなかった。

       

      原田商事もまた大きな転換期を迎えていた。社長の原田は、かなり早くからバブル経済の崩壊を予測して、社員全員に注意喚起していたが、高額品が簡単に売れるという情況が当たり前となってしまって、浮かれた気分の蔓延は防ぐことができなかった。株式上場の条件を完璧にclearしながら、原田は上場をとりやめた。自分が会社をコントロールできなくなるような気がしたからだった。平成元年には、原田商事の年商は150億に達した。それでも業界でやっとトップ10の中に入っただけだった。業界内には、年商200億以上の企業が7社もあったのだった。原田は、それらのほとんどが10年以内に経営危機に陥り、20年以内には倒産するか買収されることになると確信していた。原田は、売上を追うことをやめ、会社のdownsizingばかりを考えるようになっていた。

       

      Sorry、途中からアンタの話を聞いてなかったようだな。少し考えることがあるから、おかわりを作って、一人にしておいてくれ。Thanks

      OK, Sir

      堂前は5杯目のバランタイン・ロックに口をつけた。急に酔いが回ってきたような気がした。と同時に、いきなりこの数年のことがデタラメな順番で頭の中を駆け巡った。一番の驚きは、大阪支店のひとつ年下の矢沢が前の年の4月からTel Aviv駐在員になったことだった。国内の景気の良さは若い矢沢が一番の恩恵を被った。とにかく機動力を生かして動けば動くほど売れた。移動距離と売り上げは完全に比例していたのだった。もちろん矢沢より若い社員も何人か大阪支店にいたが、彼らにはまだ経験が不足していた。晴れて“パシリ”を返上した矢沢は大阪支店内での売り上げNo.14か月続け、初の海外出張を経験した。Tel Avivだった。原石の生地が良くて、Makeがイマイチというイスラエルものは大阪市場にピッタリだったのだ。イスラエルの商品を大量に大阪市場に持って来ることにより、矢沢の売り上げは増々伸びたのだった。ちょうどTel Aviv駐在員だった真鍋正巳の3年の任期が終わりかけている頃と重なった。原田社長は、次の駐在員の決定を促され、矢沢を指名したのだった。

       

      しかしこの人事は、本社で大きな反響を呼んだと堂前は聞いていた。矢沢は海外勤務を希望しておらず、候補者リストにも載せられていなかったのだった。これには、さすがに松岡営業本部長も異を唱えた。

      「社長、こんなデタラメ人事が罷り通ったら社の秩序が保てません」

      「おい、松岡、長い付き合いだからハッキリ言ってやるが、お前のその古ボケた脳ミソは何とかならんのか」

      「なんですと、『古』ですと、『ボケ』ですと!!」

      松岡は顔を真っ赤にして怒りだしたが、原田は一向に気にしなかった。

      「ああ、そうだ。一応、俺が決めたんだからな、デタラメと決めつける前に何か意図があると考えるのが普通だろ。お前の頭では考えても分からんのだろうが、それなら理由を聞くのが筋ってもんじゃないのか」

      社長室での二人のやりとりは、部屋の外までハッキリと聞こえていた。若い女子社員たちは‘おっかなビックリ’であったが、ベテラン社員には見慣れ聞きなれたことで、漫才でも聞いているように笑っていた。原田は時おり、頭の固い松岡を“いじる”ことでストレスを発散しているようなところがあった。松岡もそれが分かっていながら、原田の“一の子分”を自認していたから、原田に甘えて強い反発をするようなところがあり、二人が“やりあう”と、なかなか決着がつかないのであった。

      「ほう、そうですか。頭悪くて申し訳ないですね。それならその理由とやらをお聞かせ願いましょうか、社長の横紙破り人事の理由とやらを」

      原田は口元に手をやり、急に声を潜めて喋り出した。

      「社員たちが、俺たちのやりとりを笑いながらしっかりと聞いてやがるからな。ここからはマジな話だ」

      松岡が23歩原田のデスクに近づいた。

      「誰が行っても同じだ、こんな浮かれた景気の時は。バカな買い付けしても簡単に売れるんだよ、そうだろ」

      松岡が頷いた。

      「それにな、どうも中東が“キナ臭い”というナマの情報が俺の学生時代の同窓生や後輩たちから入ってきている。万一の際に逃げ出す、と言うと滑稽だがな、そんなことにもなりかねん。そんな時には矢沢のようなフットワークの良い奴がいいんだよ。お前が作った候補者リストの者たちは平時になるまで取っておけ」

      「なるほど。良く分かりました」

      原田がニヤッと笑った。

      「よし、それじゃまた、社員向けの芝居の始まりだ」

      と言って原田は立ち上がり、再び大きな声で言った。

      「営業で数字を残してきた者をしっかりと見て抜擢するのがお前の仕事だろうが。俺が矢沢が適任だと言う前に、お前から推薦があって然るべきじゃないのか。一体、毎日、社員のどこを見てるんだ。お前は頭も目も年がら年じゅう春霞だな」

      「はい、はい、どうせ私はどこもかもダメな爺ですよ。ここまで言われてはもうこんなところには居てられません。明日にでも引退させていただきます!」

      「また馬鹿なこと言ってやがる。お前なんかなぁ、引退して家にずっと居てみろ、カミサンからゴミ扱いされてな、それそこボロ雑巾のように捨てられるだけだぜ。心配しなくともお前の骨は俺が拾ってやる。とりあえず、眼科に行って、曇り止めの目薬でも貰ってきやがれ」

      「言いましたね、社長。私と一緒じゃないと飛行機にも乗れないくせに」

      「なんだと!」

      松岡はサッと身をひるがえし、バターンと大きな音を立ててドアを閉め、社長室を出た。社員たちの笑い声が聞こえてきた。ちょっと情けなかったが、これで会社がうまく回って行くのだったら安いものだと松岡は思った。

       

      矢沢がTel Avivに赴任してちょうど4か月後の199082日、イラクがクウェートに侵攻、湾岸危機が勃発したのであった。原田と松岡は、情報の確かさを驚くことよりも、ついに『来るものが来た』と表情を曇らせた。7月末までの売上は前年同様の数字を保っていたが、間もなくRecession(景気後退)入りすることは間違いなく、山が高かっただけに谷も深くなることが容易に推測された。原田は、どうやって“ソフトランディング”させるか、そればかり考え、浮かぬ顔になることが多かった。

       

      イラクのクウェート占領が続く中、Tel Avivに買い付けに行くバイヤーは徐々に減り始めた。10月の半ばを過ぎる頃には『D-Day』がいつになるのか、マスコミを騒がせることになり、バイヤーは激減した。それでもTel Avivに行くバイヤーは、『勇気があるのか、アホなのか、どっちや』というようなことが言われるようになった。お蔭で、矢沢の買い付けは快調に進んだ。とにかく日本人の競争相手があまりいない状態だったから、ある面で、“言いたい放題”だった。かなりの量の格安商品を会社に送ることが出来、営業の者たちから喜ばれた。しかし、矢沢も“逃げる”時が確実に近づいていた。松岡本部長からは、毎日のように『大丈夫か? 無理するな、適当に切り上げて退散しろ』という電話やFAXが来たが、日本で感じているほどには怖くは思わなかった。一つ問題があるとするなら“ガスマスク”だった。イラクのサダム・フセイン大統領は盛んに『イスラエル全土に化学兵器をばら撒いてやる』と脅し続けていたから、ガスマスクが必要不可欠だった。イスラエル国民はどこに出掛けるにもガスマスク片手だった。どこに行っても売れ切れで、注文しても1カ月後とか言われた。これには大いに不安になり、本部長に相談した。わずか4日後、矢沢の手元に東京からガスマスクが届いた。FAXで本部長にお礼のメッセージを送ると、電話が掛かってきた。

      「社長が手配してくれたんだよ。でも、どうやって手に入れたのか教えてくれないんだ」

      「相変わらず恐ろしい方ですね」

      「そうだ、どこにでもコネがある。今回のは自衛隊か、米軍か、って感じだな」

       

      「ところで、矢沢くん、そろそろ“撤退”した方がいいんじゃないの。もう十分に頑張ったことだし」

      「そうですね、日本大使館に相談してみます」

      多国籍軍の攻撃開始は恐らく、Christmas明けになるのではないかという観測がもっぱらだったが、12月に入ってほとんどの民間旅客機のイスラエル発着がストップしてしまった。残っているフライトも脱出しようとする人でアッと言う間に予約が一杯になり、ウェイティング・リストも膨大な数で、とても乗れそうになかった。機動力の良さを買われてTel Aviv駐在員を任された矢沢の本領を発揮すべき時だった。Tel AvivからCairo(カイロ)までバスが出ていた。500キロの道のりを3日掛けて到達した。Cairoからアリタリア航空でRomeに移動し、やっと安堵の溜息をついた。とりあえず空港近くのホテルにチェックインして本社に電話した。『松岡本部長はいらっしゃいますか?』と言ったが、しばらくして電話の向こうから聞こえてきたのは松岡よりも格段に良いバリトンの声だった。

      「おお、矢沢クン、無事でなりよりだ。原田だ。元気か?」

      おおっと、という感じで、いきなり矢沢は電話を持って立ち上がってしまった。何故か涙が零れそうになった。

      「はい、身体は元気ですが、精神的にグッタリです。もう少し早く逃げ出すべきでした」

      「イスラエルの日本大使館は色々と力を貸してくれたのか?」

      「いえ、あまり・・・」

      「そうか、それは大変だったな」

      「これからどうすればいいですか?」

      「そうだな、Romeにいても仕方ないからな。とりあえず、明日あたりAntwerpに移動しなさい。Antwerp34日買い付けしている間にキミの今後についてまた指示しようと思う」

       

      結局、矢沢はそれからずっとAntwerpに滞在していた。帰国しても良かったが、湾岸が平穏になっても日本からでは、直ぐに旅客機が飛ばない恐れもあり、Tel Avivに戻るまで時間を要するのではないかと懸念され、また、湾岸危機の影響で何となく海外出張に出たがらない空気が蔓延していたから、矢沢がAntwerpで買い付けするのは自然な成り行きだったのだ。堂前は、一昨日、Antwerpに電話して“可愛い後輩”の矢沢と久しぶりに話をしたところだった。

      「ベルギーの生活はさぞやええやろな」

      「あほなことを。今いつや思てますねん。真冬でっせ。ホテル住まいは寒うて耐えられへんから、アパート借りてもらいましてん」

      「ほう、流石に稼ぎ頭は違うな」

      「また、そんなこと。まあそれでも、パシリの時よりは待遇よろしいわ」

      「そりゃそうと、矢沢、お前、定期的にオランダへ通てるようなことはあらへんやろな」

      「そりゃもう、カジノ通いは身の破滅ですから、気つけてますわ。飲むだけにしてます」

      「それは良かった」

       

      かつてAntwerp駐在員だった高瀬は、やはりカジノの誘惑から逃れることが出来ず、借金作って公金を使い込み、それが発覚して解雇されたのだった。堂前がAntwerpに出張した折りの高瀬は、既に異様な雰囲気でカジノに行っていたから、高瀬と親しい西川に言って止めさせようとしたが駄目だった。その後の高瀬の行方は誰も知らないようだ。ベルギー人の彼女と住んでいるとか言う者もいたが、どうでも良い話だった。要するに、それだけの男だったということだ、別に気にするほどのことではなかった。現在のAntwerp駐在員は遠藤だった。NYから横滑りしてきたのだった。遠藤は、駐在員会議で原田と会った時、ずっとNYで仕事がしたい旨を懇願した。ダイヤの買い付け以外のことでも構わないからNYから帰国させないでくださいと熱心に語った。原田は、しばらく考えて返事をすると言い残して別れた。約半年後、原田と松岡がNY市場を視察に訪れた。二人は数日滞在して、遠藤の案内で市場調査した。原田は帰国する前の夜に遠藤と食事して提案した。

      「どうせ、キミのことだから、帰国命令を出したら退職願が返ってくるのだろう。それならそれで一向に構わん、と言いたいところだが、キミの語学の才能は捨てがたい。帰国命令は出さんが、次の任地はAntwerp、ベルギーで3年我慢したらまたNYに戻してやる。それでどうだ」

      と言われ、何となく社長に誤魔化されたような感じだったが、納得してずっと時が経ってしまった観だった。

       

      堂前は、色んな物思いからやっと現実の世界に戻った。気が付くとバーカウンターの堂前の両サイドにもグラス片手の男が座ってお互いの連れと何か談笑していた。そろそろ部屋に引き上げ時だった。堂前は、機関銃手だったというバーテンダーに向かって右手を挙げ、ペンでサインする格好をした。直ぐに勘定書が用意され、部屋番号と名前を書いて立ち上がった。堂前は、遠藤の後任のAntwerp駐在員を希望していた。しかし、今日Bombayでその考えを改めることにしようと思った。特に何があったという訳ではなかった。良く考えると、もうそんな“時代”ではないのだろうと思われたのだった。ダイヤモンドが売れなくなるとは思わなかったが、駐在員は不要になるだろうという気がした。出張で行くだけで十分であるし、実際に日本市場を“こまめに”見ていないと、変化が激しくなるであろう“時代”に対応は不可能になるに違いないと思った。奇しくもこれは原田の考えと同じだった、堂前が原田の考えを聞くことは全くなかったのであるが。

       

           ― 続く ―

       

       

       

      | ukitama | - | 16:32 | comments(0) | - | - | - |
      いろごと
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        3月ですね、5日は二十四節気『啓蟄』、虫たちも穴から出て来る頃となります。

        暖冬でしたから、3月が待ち遠しかったというほどでもないのですけども、

        なんとなく3月というのは嬉しい気がするものです。

         

        今年は閏年で、先月は29日までありましたから、一瞬『アレ?!』っと感じてはおりました。けれど、1日増えたところで2月の短さを思ったのはいつも通りで、『早いな、もう3月やなぁ』と何気に呟きましたら、家内から『毎月そんなことばっかり』と揶揄され、、、いけませんねぇ〜これはひょっとしたら、、毎日何となく過ごしているだけで、あまり充実してない証拠?! もっと時間を大切にしたいと思います。

         

        ところで、日本ではことさら取り上げませんけども、229日の誕生日の人って、一体どれくらい存在しているのか少し興味ありますね。我々が生まれた当時は、“ゆるかった”と言いましょうか、結構“誕生日を変えている”者がおります。ウッキーの同級生なんて何人もおりますよ、当然ながら1週間以上ズラすのはかなり無理がありますから、出生届を出さないといけないですからね、皆、2日〜5日の“変更”なんですけども、年末に生まれて元旦の誕生日なんていうのはかなり多いのではないですかな。ちょっと酷いと言うか、可哀想なのは、せっかく43日とかに生まれているのに、3月末の出生にされている者。無理やり『早行き』にさせられて、それはもう小学生の最初の頃はさぞやシンドかったでありましょうね、容易に想像つきます。そういうことで、229日の誕生日の人というのは知らないですね、自分からは言わないだろうしね。最近は産婦人科医が厳しいらしですから、平成生まれの229日の誕生日を持つ者は普通にいるのでありましょう。先月末、英国BBCのニュースを見ておりましたら、英国にはかなり“その日”が誕生日って公言して平気な人が多いのですね、何人もインタビューに答えておりました。8歳の少年が、『僕は2回目の誕生日を迎えたんだ』なんて言っているのを聞きますと微笑ましくもあり、何となく可哀想でもありで、ちょっと複雑な気分。40歳の女性が、『私は今年10歳ですよ、まだまだ若い若い』とかって割りと嬉しそうにしているのも英国ならではでありましょうか。『閏年でない年に誕生日を祝ってもらうの?』というような意地の悪い質問には、『228日か、31日にね』って言う真面目な回答ながら、『それって、ホントのところはどうなのかな?!』と考えてしまいますね、嬉しいのか嬉しくないのか、かなり微妙なんだろうと。

        と思いますと、誕生日に限らず、毎年巡ってくる個人的な〇〇の日、記念日、もっと気を使って然るべき〜、もっともっと意識すべしと感じます。

        自分自身の誕生日だけではなく、大事な人の誕生日、そして〇〇記念日、何かの形で“花を添える”ことをやっていただればと切に願います。

        とりあえず今月は14日、ホワイトデーか、

        ちょっと釈然といたしませんが、

        これも大事やねぇ、諸兄。

         

        さてまあ、外出を控える人が多く、デパートでは土日でさえも客より店員の方が多いーーなんていうのはよく聞く話で、それだったらかえって安心だろうってね、サービスもこれまでよりは良いだろうから、デパート行くのなら今や!って意気込んでいる人もいるとか〜

        ウッキーはどうかと申しますと、

        日ごろから出不精なもので、いっそうそれに拍車が掛かりまして、もう1週間、電車やバスに乗っていない! もう完璧に“PC前”に張り付いておりますよ。

        運動不足だろって?

        それがですな、ここは田舎ですから、人や車がまばらなジョギングコースには事欠かない。恩恵を被っております。

        まあでも、四六時中ジョギングしていられませんからね、いわゆる“余暇”は?

        そう、読書ですな、これにも拍車が掛かってまいりました・・・今年は久しぶりに年間100冊に挑戦!

        そう、久しぶりに。

        年に6回7回と海外買い付けに行っておりました頃は、年間100冊以上が当たり前だったのですけどね、専ら時代小説やらハードボイルドやら、行きのフライトだけで2冊読めてしまうような内容極薄が圧倒的に多くて、あまり意味があるとは思えなかったですから、今年はちょっとアカデミックでもないけど、人から聞かれたら『へー』と言われそうな著書を、と思っておりまして、

        な、な、なんと、数日前から『源氏物語』(与謝野晶子訳)を開いております、、(どや顔)。それ、わざわざ買ったのか?

        いえ、実家で見つけたのです、かなり前に。オヤジが使っていたデスクの横の本棚にありましたから、オヤジ自らガラにもなく買ったってことでありましょう。でも全く綺麗なもので、恐らく早くにGive upしていることに違いない! 偉そうに言うなってね、まだ読み始めのくせにね・・・角川文庫でございます、上中下の3巻で、平成3年の第49刷、若干黄ばんでいる以外にはホント乱れもなくて、十分すぎるほど。

         

        この与謝野晶子が現代語訳した源氏物語、角川文庫になったのが昭和46年ですから、オヤジのように読まない人も多かったのだろうけど、かなりの発行部数になりますね。それでも、晶子さんが訳した当時は全く売れなかったらしい。どうしてなんだろうね、ちょっと不思議な気がする。谷崎潤一郎訳の物が有名だから、源氏物語を読もうとする人は圧倒的に“谷崎本”を選んだのかもしれませんな、晶子さんは歌人、と思われているということもあるのでしょうね。

         

        これを読み始めるとですな、非常に面白いことに気がついたのでありますね〜第2章?第2段?、どう言えば良いのかな、とにかく『桐壷』の次の『帚木(ははきぎ)』においてですな、女性論が展開されている訳なんですよ〜ちなみにこんな感じ――

        『・・・なよなよとして優し味のある女だと思うと、あまりに柔順すぎたりして、またそれが才気を見せれば多情でないかと不安になります・・・・妻に必要な資格は家庭を預かることですから、文学趣味とかおもしろい才気などはなくてもいいようなものですが、まじめ一方で、なりふりも構わないで、額髪をうるさがって耳の後ろへはさんでばかりいる、ただ物質的な世話だけを一所懸命にやいてくれる、そんなのではね。お勤めに出れば出る、帰れば帰るで、役所のこと、友人や先輩のことなどで話したいことがたくさんあるんですから、それは他人には言えません、理解のある妻に話さないではつまりません・・・そんな時に何ですかとつっけんどんに言って自分の顔を見る細君などはたまらないではありませんか・・・』

         

        へ〜、ですよね、現代と何ら変わらぬ世界がある、と言いますか、男の感じ方、妻の有り方、千年経っても同じ。そして、男の気持ちを女の紫式部が書いているという、、、ある意味、感動的でさえありますね。

         

        高校の古文の授業で源氏物語を勉強したことがございました。でも冒頭の部分だけでした〜・・誰でも良く知っている文章、、、『いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり・・・』、、

         

        もうン十年前のことですが、この授業の折り、ある男子が先生に質問したのですね、『時めきたまふ』とはどういうことですか、と。おいおい、そんなこと分かり切ってるやろーってね、『わざわざ聞くな』ってヤジが飛びそうなものでありますけども、意外に教室は静かでした。そしてその時の先生の微妙な表情が忘れられません。ちょっと困ったようなね。でも、今から考えると、ベテランの先生でありましたから、何度もそういう質問は受けていたはずで、慣れていたに違いない。あの微妙な、ちょっと困った表情さえも質問に対する答えの一部だったという気がいたします。絶妙とも言える“間”の後、先生はおっしゃった、、『帝(みかど)のご寵愛を受けて、寝所にお仕えすることが多いことを言います』。完璧ですね〜、『ご寵愛』だけでは更なる質問を呼んでしまう可能性が高い、そうなると美しい古典の授業の品格を大いに損ねてしまうに違いない、、なんてことまで気遣ったと考えられます。

         

        難解と思われがちの源氏物語、しかし、実際のところは分かりやすい女性論や恋愛論であったりするわけで、そんなところをまた読み進めて皆さんとともに『あれやこれや』と言って楽しみたいと思っております・・・

        ♂♀の話題もふんだんに・・・な〜んじゃそりゃ!?

         

        ♂♀と言えば、源氏物語に先立つものがありましたな、そうなんです、

        『伊勢物語』、、

        在原業平という男前を主人公にいたしまして、『むかし、をとこ・・・』で始まるお話の数々。これが何で『伊勢物語』というタイトルになったのか? UKI氏の郷里である三重県を舞台にしたお話の数々なのか、というと全くそんなことはないわけですな。誰も分かってないというのが事実、作者さえも不詳です。

        一説によりますと、第69段で伊勢を舞台にしていて、その中で業平さんがですな、伊勢の斎王とやっちゃうわけなんですな、それがあまりに衝撃的―ということでタイトルとなったと。斎王というのは、伊勢の斎宮という御所で伊勢神宮に仕え奉仕する皇女なわけでして、もうホントとんでもないお話、そんなのアカンやろと、ウッキーでさえ思ってしまうのにね。

         

        とにもかくにも、この在原業平という男、光源氏の大先輩で、もう凄い鼻息で女めがけて“突進”している。歌さえも、既に着物脱ぎ掛けて“準備”に入っているのではないかというようなトーンですから、それはもう凄まじいものでありますね。それを、岡野弘彦氏という国学院大学の先生、“三重賢人”がですな、『いろごのみ』という言葉で、とっても真面目に語って解説しておられますから、これがまた二重三重のおかしさと言いましょうか、ホント笑える。

         

        『伊勢物語』は、あとに続く『源氏物語』の“原型”と言っても過言ではないのに、そういう評価っていうのは聞きませんね、どうしてだろう。恐らく、“物語”としての完成度があまりに差があり過ぎる、ということなんだろうと思います。源氏物語の現代語訳を目にすれば、多少の違和感を除いて直ぐに“入り込める”気がするのですけどね、伊勢物語はどうも『なにか違うぞ』という感覚があるし、他愛なさすぎるとも言えますな。

         

        それにしましても、日本の古典というのは、『色』にあふれている、のが特徴と言いますか、優れていると感じますね。『色』とは、男女の“いろごと”であるし、また実際の“カラー”、色味。

        ぼんやりと読んでいても、“それ”を感じますから、その都度、想像力“たくましく”ならざるを得ないのですね。

         

        さあ、外出を控えておられる皆さん、

        こんな機会は滅多とありませんよ〜

        せいぜいこの機会に『色』とふれあいましょうよ。

         

         

         

         

        | ukitama | - | 16:54 | comments(0) | - | - | - |
        Market News
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          世界のダイヤモンド関連のニュースを少し。

           

          先ずはNew Yorkから。

           

           

          この画像は何か分かりますか?

           

          6.21carats Fancy Intense Pink Purple,

          なんだとか。

          NYに本社を置くL. J. Westという宝石屋が、ロシアの有名な鉱山であるAlrosaから買ったという商品。

           

          This is a stone that’s so incredibly rare, it could be in a museum.

           

          『信じられなほど稀少で、博物館クラス』

          ということですね。

          『これまで見た中で最大のPurpleで、最も鮮明な紫』とL. J. Westの副社長が言うくらいですから、相当な物なのでありましょう。

           

          それでも、L. J. West社は、このIntensePurpleはまだ改善の余地があると考えており、再研磨することにより、Purpleの色を更に引き出し、Clarityグレードもアップするとしております。画像で見る限り、ちょっとPinkが強いのではないかと思われますが、これがもっと純色のPurpleに近づくということでしょうね。それに、画像でもインクルージョンは見えないほどCleanですから、ひょっとしたらVVS2以上、あるいはVVS1になる可能性も秘めているのかもしれません。

          ただし、再研磨によって、重量は約1カラット減少するとのこと。

           

          さて、気になる価格ですが、

          残念ながら、L. J. Westは、どのような価格も公開を拒んでいるとか〜・・・

          肝が小さい!!

           

          まあ、どうでも良い話ですが、どうせ買えないですから、

          ジュエリー加工して販売するそうです。

           

           

          次は、問題山積の中国に代わって世界のダイヤ市場の牽引役となっているインドからのレポートです〜・・・

           

          Exhibitors at the IIJS Signature show in Mumbai expressed confidence India’s strong wedding tradition and enduring love of gold would help the nation’s jewelry industry overcome its current challenges.

           

          Mumbaiで開催されたジュエリー展示会の出展者は、インドの強い伝統的な結婚式と永続的な金(Gold)への愛着は、国内のジュエリー業界が現在の課題を克服することに役立つと表明した。

           

          Economic uncertainty, high gold prices, tight regulation and the outbreak of the coronavirus in China have created difficulties for the Indian jewelry sector. Gold prices have always gone up. Gold is a form of investment for Indian people. People trust in gold prices.”

           

          経済の不確実性、高い金価格、厳しい既成、コロナウィルスの発生など、インドのジュエリー業界は困難に直面しているが、金価格は常に上昇している。金(Gold)は、インド人の投資の一形態であり、人々は金価格に信頼を置いている。

           

          The yellow metal has gained around 20% in value over the past year as investors view the commodity as a safe haven during global economic uncertainty. While that has dampened Indians’ ability to buy, many consumers still see it as a strong investment and even as a currency, with the price growth sometimes boosting their willingness to splurge before the rate increases further.

           

          黄色の金属は、世界経済が不確実性を増す中で、資金の安全な逃避場所となり、過去1年間で約20%も値を上げた。それは、インド人の金(Gold)の購買能力を低下させたが、依然として金は有望な投資の対象であり、彼らはそれを通過とさえ見ている。それどこか、金価格の上昇は、さらなる投資の意欲に繋がっているとも言える。

           

          However, a shift by consumers toward pieces with less gold content and thinner profit margins for jewelers have offset the rise in gold demand over the past year, exhibitors said. India’s 12.5% import duty on the precious material has intensified the problem, Shah added. The government’s decision to maintain that rate — as well as a 7.5% levy on polished diamonds — in its annual budget earlier this month disappointed the trade, which had been campaigning for a reduction.

           

          しかし金価格の上昇は、消費者の、より軽いめのゴールド・ジュエリーの選択へと導かれたせいで、金の需要の増加は相殺された。また、貴金属に対する12.5%の関税と、研磨済みダイヤに対する7.5%の輸入税は、貿易業者を失望させた。

           

          But while Indian nuptials continue to feature bold displays of expensive jewelry, making it a constant source of demand, wedding budgets have decreased due to the sluggish economy. Diamond consumption has suffered as Indians opt for smaller jewelry, with the average Indian bride now wearing around 15 carats in total weight on her big day, compared with 30 carats two years ago, estimated Hardik Shah, the executive director of BR Designs, a Surat-based jewelry manufacturer and retailer.

           

          インドの結婚式は高価なジュエリーの展示場であり続け、それによってある程度の需要は期待できるが、不景気のせいで結婚式の予算は縮小されている。現在の平均的なインド人の花嫁は、合計15crts(地金と合わせた重量、約3グラム)のダイヤリングを身に付けている。それは2年前に比べると約半分の重量になっている。

           

          Consumers there are shifting to lower gold weights and fewer diamonds in their wedding jewelry, but aren’t compromising on color and clarity, according to Nilesh Soni, head of marketing for the southern region at Mumbai-based jewelry manufacturer Neo Diamonds. They’re still insisting on D-to-F, VVS diamonds, he observed, noting that his company’s sales at the show were mainly of mid-range wedding necklaces with those specifications, Soni reported.

           

          インドの消費者は、ウェディング・ジュエリーの金地金の重量を減らしてはいるが、ダイヤモンドの質に関しては妥協していない。結婚するカップルは、相変わらずDからFVVSのダイヤモンドを求めている。』

           

          ダイヤモンドの世界で、インドの強みは圧倒的なものがあります。

          なんせ、世界のダイヤ研磨のかなりの割合を握ってしまっているし、それとともに、ダイヤモンドの一大消費地であるということ。かつて、インドは貧しい、しかし、インド人のたったの5%がダイヤを1個ずつ買うだけでその数は数千万個、それだけの日本人がダイヤを買いますか?と聞かれ、ぐうの音も出ませんでしたが、今や5%ではないですからね、一体、日本の何倍の消費量があるのだろうと思ってしまいます。

           

          そして、インドの強みは、アメリカとの関係が良好なこと。

          インド系のダイヤモンド屋さんがアメリカで販売網を築くことに何ら問題がない。インドとアメリカ、2つの大消費地に恵まれ、インドのダイヤモンド産業はますます興隆して行くのではないですかな。多少の不景気は全く関係ないという気がしております。

           

           

           

           

          | ukitama | - | 15:50 | comments(0) | - | - | - |
          ダイヤモンド今昔物語ーその16
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                ―前回の続き―

             

            198X213日、Brussels国際空港、到着エリア、高瀬は西川がインドから飛んでくるのを迎えに来ていた。ベルギー時間午後5時半、多くの人たち各々が、さまざまな笑顔で大きな扉の向こう側から姿を現すのを待ち構えていた。到着ロビーの表示板では、西川の乗ったSABENAベルギー航空機は既にtouchdownしていた。荷物を見つけるのに時間が掛かっているのだろうか・・・スーツケース等が完全に行方不明になって紛失してしまうということは極まれであったが、預けた荷物だけ半日遅れ一日遅れで届けられるということはよくある話だった。高瀬も一度、出張でBrusselsに到着した折りに経験させられていた。早朝に着いて、荷物はその日の夕刻にホテルに届いたから良かったものの、届くまでの不安な気持ちは表現のしようがなかった。『あの時、念のためと思ってAntwerpのデパートで買った下着は、なにかどうも穿き心地の悪いトランクスだったが、日本円にして12,000円以上もしたなあ』なんて思い出していると、いきなり西川が目の前に来た。

            「ボーっとしてんじゃねえよ」

            「おー、ビックリした。Welcome to Belgium!

            「社長たちはもう着いてるの?」

            「明日の朝Amsterdam着の便だ」

            「遠藤さんと泉さんは?」

            「予定、聞いてねえなぁ。会議に間に合うようにやって来るだろ」

            「そうか、良かった、今日はお前とゆっくり喋れそうだな」

             

            翌日翌々日、14日と15日の二日間、Antwerpで、原田商事の駐在員会議が行われる予定だった。毎年、日本からは、社長、営業本部長とともに、国内4か所それぞれの支店長がやってきたが、物見遊山は許されなかった。二日間の中身の濃い議論、討論、考証、分析など等の後、支店長たちは、それぞれの任地に戻って行く駐在員の誰かに一人ずつ付いて“現場”に行き、一緒に買い付けをしなければいけなかったのであった。エレベーターで何度か上り下りを繰り返し、二人はようやく空港脇の駐車場にたどり着いた。

            「おい、この寒さ、なんだよ一体。信じられない」

            「そんなこと来る前から分かってただろ。でもまあ確かに、今日はいつもより寒い気がするな。既にもう氷点下に行ってそうだ」

            「おお、Fantastic40℃超と氷点下、同じ日に両方経験できるとは幸せ」

            「ここの会議のあと、札幌の北條さん、Bombayだぞ。大丈夫かな。北海道とBombayじゃ、体感で60℃くらいの差がある」

            「そんなことくらいで音を上げてたら、社長に撃ち殺されるよ」

             

            その後、高瀬の運転する車の中で二人は、同じ数十度の違いなら、暑⇒寒、寒⇒暑、どちらが耐え難いか、ということを真剣に議論した。どちらとも説得力のある論拠が提示されないまま、何をこんなに真剣にと、バカらしくなってきた。それでも二人は、ひとつのことだけ“合意”に達した。“酷暑”⇔“極寒”、どう移動しても問題なく平然としていられるのは原田健太郎だけに違いない。

             

            同じ頃、Antwerpダイヤモンド街。

            数日前既に、アルノンとミカエルは、無事にインドから帰国していた。買い付けた商品も届いて、順調な売れ行きで、ロシアもののCleanishを扱っていた時とは比べものにならないほどの利益を上げていた。

            「この調子で行くと、直ぐにまたSuratに行かないといけないのではないですか」

            「ミカエル、お前ひとりで行けるか?」

             

            さすがにミカエルも『Yes』と即答は出来かねた。Antwerpにやって来る東アジアの若手バイヤーたちと遜色ないどころか、彼らを上回るほどの鍛えられた“目”を持っているミカエルではあったが、如何せん人生経験が足りなかった。普通なら、女の子の尻を追い掛け回しているティーンエイジャーであり、ダイヤモンド街以外、Antwerp市内以外での体験に乏しく、物事に柔軟に対処出来るかどうかは全く不透明であり、アルノンにしても、一人で出張させて任せるには誠に不安と言うしかなかった。しかし、ならば1年後、あるいは2年後になったら自動的に人生経験も豊富になって、単独での仕入れをさせても大丈夫と言えるようになるのかと言うと、それも違うような気がした。結局は、アルノン自身がどの時点で決断するのか、ということだけであった。インドSuratは、心地良い環境とは言えなかったが、覚悟して行ったせいで何とか乗り切れた。ボトルに入った飲料水以外は飲まなかったし、生の野菜や乳製品を絶対に摂取しなかったから、胃腸は全く問題なく過ごせた。アルノンが以前に取引したインド人が甥にやらせていると言っていたSuratの研磨工場は、確かに大きく、何十人もの研磨職人を抱え、非常にアクティブに見えた。しかし、初回からリーズナブルな価格での販売という訳にも行かないようで、アルノンは『また来るよ、その時はよろしく』と言って何も買わずに引きあげた。一方、エリックが紹介してくれたAbbas Diamondsは、期待以上だった。工場から磨り上がり直後の、湯気が立ってそうな商品をふんだんに用意してくれて、アルノンは久しぶりに興奮してしまったのであった。中でも、1crtから3crtsのラウンドのSI2, I1あたりの商品は圧巻だった。もちろんそれらは、“ロシアもの”のテリや透明感とはとても比べられる物ではなかったが、『無色透明の大きなラウンドの、格別に安いダイヤが欲しい!』と望む消費者に‘ピッタリはまる’、と確信できる圧倒的な安さだった。今回は、たまたま2crts3crtsが安く豊富にSuratにあって、逆にAntwerpではそれらの物が品薄であったことで、ミカエルがまず商品を持ち込んだエリックのオフィスで、2crts以上の商品は羽根が生えたように完売したのであった。ミカエルは帰り際、エリックの父親のモーリス・オースティンにも深く感謝の気持ちを述べに行った。モーリスは、『な〜に、どうと言うことはない。お互い様だ。それにキミのような若い人が頑張っているのは嬉しいし、常に応援したくなるもんだよ』と言ってくれたが、その“どや顔”は、いつまでも忘れそうにないと思った。あと2度や3度は同じ買い付けと販売が可能だろうという楽観的な気持ちにミカエルはなっていたのも事実で、徐々に一人でSuratに行くこともまた楽しいかもしれないと思い始めてもいたのであった。

             

            Brussels国際空港から小一時間後、高瀬の運転する車はAntwerp市街に入っていた。

            「“飾り窓”でも冷やかすか」

            「えっ?! なんとおっしゃいましたか、高瀬さん」

            「飾り窓だよ、外から見ている分には綺麗なもんだ」

            「見るだけだぜ、まだAIDSになりたくないからな」

            「当たり前だ!」

            「しかし、高瀬、お前は本当に良い男だ。“飲む打つ買う”、全て揃ってバイヤーの鏡だな」

            「おい、ちょっと待て。誰がそんなことを」

            高瀬は徐行しながら“その通り”に入って行ったが、西川の言葉に動揺を隠しきれず、危うく道路脇に駐車している車にぶつけそうになった。極彩色と言うか、真赤な灯りで飾られた大きな“窓”が並び、中のランジェリー姿の女たちが思い思いの媚態を作っていた。車から降りて歩くと、何か“危険”という気がして、高瀬はジョギングよりも遅い速度で車を動かして行った。通りを歩く男たちは決して少なくはなく、飾り窓の前に立ち止まっている者もいた。いくつかに一つはカーテンが閉じられ、“Busy”ということが良く分かった。助手席の西川は、ダイヤモンドを見る時よりも明らかに真剣な眼差しになっていた。しばらくして高瀬は、頭がクラクラしてきた。これはダメだと“通り”から抜け出し、港の方へ向かった。西川は後ろ髪を引かれるような顔で“通り”を振り返っていた。

            「ご堪能いただきましたか、西川さん」

            「ばかな」

            「それにしては力の入った視線だったな」

            「そういうことは言いっこなしだ」

             

            「それはそうと、西川、さっき俺のことを“飲む打つ買う”なんて言ったけど、誰だ、そんなこと言ってる奴は」

            西川がAntwerpに来るのは2度目で、初回は高瀬がAntwerp駐在員になる前だったから、西川は高瀬の“手慰み”を知らないはずだった。

            「先月、大阪の堂前がBombayに来たんだよ。色々話してたら、去年Antwerpに買い付け行きましたと言うから、『どうだった?』と聞いたら、『高瀬さんにはホンマお世話になりました。特にカジノでの熱いご指導は忘れられません』、なんて言ってたぞ。それに『自分だけ勝たせてもらって誠に申し訳ない気持ち』、だってさ」

            高瀬が苦虫を噛み潰したような表情になった。高瀬は相変わらずベルギー国境を越えたところにあるオランダのカジノから離れられず、“負け”のトータルも増え続けていた。

            「堂前が、『ルーレットの台に向かっている高瀬さん』と言ってな、お前の真似するんだ、煙草を右手に持って、顔を少し左に傾けながら‘はすかい’の視線で、左手でチップを次から次へと置いて行く姿をな。“さもありなん”と大笑いだったよ」

             

            「高瀬、カジノに行くなとは言わんが、ほどほどにしておかないと取り返しのつかないことになるぞ」

            「うるせーな。堂前が来た時にはちょっと調子に乗り過ぎただけだ」

            「それならいいけど、堂前の言い方からすると、お前、相当に“のめり込んで”いるんじゃないかと、俺は心配している。そんなになるまで博打に取り憑かれ魂を奪われるほどになって、ホントどうかしてる」

            「わかってるって。分かってるけどやめられないんだよ。ヨーロッパの、この冬の暗さ、お前には分かるはずもないが、どうやって過ごせばいいのか、他に何かやることがあるのか、何をすれば良いのか、俺にはサッパリ分からん」

             

            港の近くのスペイン料理店を出たのはもう深夜であった。西川をホテルに送り届け、高瀬は初めて自分がかなり酔っていることを知った。西川の安宿から西に400mくらい走ると、Sheratonが見えてきた。付近の広い車道には車もまばらで、歩いている人などいなかった。これ幸いに、高瀬は車を停め、エンジンも切ってシートを後ろに倒した。安物の赤ワインのせいだったに違いない、頭の中がガンガンと鳴っているような気がして、深夜の景色が休まずに回転しているのではないかと思った。夜の木立の黒さが戦慄するほど不気味に見えた。高瀬は眠りに入って行くことをなんとか堪えた。外は氷点下10℃以下になっているに違いなかった。いくら車の中とは言え、こんな吹きっさらしの場所に朝までいたら凍死するかもしれなかった。かと言って寒くて誰も待ってない自分のアパートに帰るのは気が滅入った。ジュスティーヌの部屋に転がり込むしかないという結論に至った。シートを起こして車を発車させた。5分ほどでジュスティーヌが住むアパートの前に来た。ここに来るのは何度目か忘れたが、いつもこのような深夜だった。誰か“先客”がいたらどうしようとも思わなかった。その時はその時、車の中で凍死でも何でもすれば良いと、半分ヤケクソのような気分になっていた。ドアの前に立った。時間を考え、呼び鈴を押すことは控えた。ドアを34度と軽くノックした。驚いたことに、直ぐに開けられて、ジュスティーヌが立っていた。

            「待っていたわ」

            「ウソだろ」

            「そう、ウソ、でも、車が下に停まったのが見えて、あなただと確信した」

            ジュスティーヌは、高瀬のコートと上着を脱がせてハンガーに掛けた。高瀬はソファの上に転がって目を閉じた。

            「しょうがない人、ほんとに」とジュスティーヌはつぶやいて、高瀬の足から靴を脱がせ、首からだらしなくぶら下がったネクタイを取り外し、シャツのボタンを23つ外し、ズボンのベルトを緩めた。高瀬の頭は相変わらず唸りをあげていた。

            「何か飲み物くれ」

            「今日は特別に寒いからウオッカが良いかしら」

            「ウエッ、聞いただけで死にそうだ」

            「オレンジジュース、パイナップルジュース、グレープフルーツジュース、トマトジュース、どれにする?」

            「トマトジュース」

            冷たいボトルを握らされ、飲んだらただの水だった。片目を少し開けたらevianだった。アッと言う間に飲み干して、ボトルが手から滑り落ちた。高瀬はようやく安らかな眠りに落ちて行く自分自身の姿を見るようにして夢の中へ入って行った。

             

            非常に暑く感じて、高瀬は目を覚ました。ジュスティーヌが高瀬の胸を枕にして眠っていた。いつの間にかベッドに移動したようだった。しかし高瀬の胸は裸ではなくTシャツを着ていた。下半身を“確認”すると、トランクスも普通に穿いているようだった。当たり前だ、あんな状態で何か“出来る”はずはなかった。ジュスティーヌは薄いタンクトップを着ているようだった。身動きして起こしてしまうのは可哀想と思って、高瀬はじっと我慢していた。外はまだ深夜のようであったが、時間の感覚がなかった、恐らく早朝なんだろうと推測していた。

             

            ジュスティーヌは、ダイヤモンドバイヤーたちが定宿にしているホテルの一つ、Caesar Hotelに勤務していた。Caesar(カエサル)とは名ばかりのビジネスホテルだった。それでも、世界各地から毎日のようにバイヤーがやって来るから、フロントは24時間態勢だったし、ジュスティーヌはフロント勤務の後、バーカウンターの中でカクテルを作ったり、ビールをサーバーから注いだりしなくてはいけない日もあり、帰宅が深夜になることも珍しくはなかったのだった。高瀬がジュスティーヌと初めて会ったのはそのバーカウンターだった。去年の春先だった。仕事の後、何気なくフラリと入って座って、帰る時にはデートの約束を取り付けていた。その時、『あなた、本当に日本人なの?』とジュスティーヌに聞かれた。『どうして?』と聞くと、『誘い方が上手』という答えが返ってきた。

            「このホテル、日本人のバイヤー多いでしょ。夜にバーで勤務していると、しょっちゅう日本人から言い寄られるのよ」

            「へー、皆さん海外では積極的だねぇ。何て言ってくるの?」

            「明日の夜、日本料理屋で寿司食べませんか、とか」

            「だったらもう、寿司は相当食べたんだ」

            NON、全然よ。だって、お寿司食べながら口説かれたくないわ」

            「そうだよな、何となく分かる」

            高瀬は、『Antwerp王立美術館の前に座って、ルーベンスについて語らないか』とジュスティーヌに言ったのだった。ジュスティーヌは、『はあ??』という表情をした。しばらくの間、高瀬が何を言ってるのか良く理解できず、『あなた、まさか、こう言ったの?』と確認して、高瀬が『そうだ』と答えると、大笑いしたのだった。

            「そんなにおかしいか?」

            「そう、おかしいと言うか、面白い」

            「そうだよなぁ、こんな下手な英語でなぁ」

             

            その次の週末、ジュスティーヌと王立美術館へは行ったが、『無理することないわよ』と言われて、高瀬はルーベンスについて語ることはしなかった。美術館の荘厳な建物の前の階段に座って、ジュスティーヌの横顔を眺めていた。むやみに嬉しく、はしゃぎ出してしまいたい気持ちになってきた。『ベルギーの家庭料理が食べたい』と言うと、『これから食べさせてあげる』とジュスティーヌは言ったのだった。食品スーパーで材料を選んで、ワインとビールを買い、高瀬が全部支払い、ジュスティーヌのアパートに行った。特にドキドキすることもなかった。レストランに行くことを考えたら格段に安くついたなとだけ思った。

             

            ジュスティーヌの料理は、鶏肉と野菜をバターと生クリームと卵黄で煮込んだシチューのようなものだった。味は濃かったが、全く違和感なく美味しく食べられた。ビールとワインで、ほど良い心地良さになってゆき、、、

            気が付いたら翌朝だった。

             

                 ― 続く ―

             

             

             

             

             

            | ukitama | - | 16:47 | comments(0) | - | - | - |
            立春
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              東風解凍

               

              昨日、明日は『立春』ということで、何か気の利いた文章を書かねばならないと思い立ちまして、PCに向かったものの、どんよりと曇った空で、気温は高からず低からず、早春という空気の冷たさも感じられず、ということで、ちょっと冴えない気分で、何も書けず、になっておりまして・・・冴えない本当の原因は他に色々あるのですけどね、、

               

              『さあ、今日が立春だ』と、気を取り直しまして、

               

              まず短歌〜

               

                   袖ひぢてむすびし水のこぼれるを

                   春立つけふの風やとくらむ

                      ―紀貫之(古今和歌集)―

               

              ―夏の頃、袖を濡らして遊んだ水辺が、寒さに凍っている。立春となって、今日の春風が少しずつ解かしてゆくのであろうか―

               

              新年が来て1月も半ばが過ぎても、なかなか実感できぬのが昼間の長さ。相変わらずいつまでたっても夜明けが遅いし、夕暮れが早いと感じておりましたね。ようやく少し“日が伸びた”と感じ始めたのは、つい最近のことでありましょうか。ところが面白いもので、極わずかに“感じた”後というのは、次々にまた“感じる”ものですよね。残念ながら“春立つ今日の風”は未だですけども、貫之さんが凍っていると言った水が立春の陽ざしで輝いている。ちょっとした川の流れなんかをチラリと眺めて、『アレっ?!』と感じるなんてことは今の時期によくあると言いましょうか、鶯の初鳴きを聞くような“鮮”で客観的なことではないにしろ、100%主観、自分自身だけの感覚であるが故に、より嬉しいと言いましょうか、誰にも『邪魔されない』小さな喜びであるような気がします。

               

              冒頭の『東風解凍』は、

              ‘こちかいとう’とは読みません、

              “とおふうこおりをとく”でございます。

              そしてこれはもちろん、UKI氏が勝手に作った造語ではありません、「立春」等の『二十四節気』と併用されてきた『七十二候』、その1番目のものですね、御存じの方も多いかと・・・

              ・・ここでまたちょっと疑問が〜

              “春風が氷を解かす”・・・「溶かす」が正しいのでは?

              そうなんですね、「溶かす」と「解ける」、同じじゃない。明らかに使い分けられている、“守備範囲”が違います。なんらかの力を加えて「溶かす」。春風は氷を溶かそうと思って吹いて来る訳ではないから「春風が解かす」。

              しかしですな、「電子レンジで解凍」と言っているぞ!

              この慣用句を作った人は一体誰だ!?

               

              電子レンジとかという物が文章の中に入ってくるだけで、文章全体が野暮なものと感じられてきますね〜・・・

              そう、ここはもう何がなんでも、氷が解ける・・・

              これが春らしい!

               

              「東風(こち)」と言うだけで、日本人の多くは菅原道真の名を思い浮かべることでありましょう・・・・“匂いおこせよ梅の花”、、、

              菅原道真が政争に敗れて大宰府に流される直前に詠ったものとして知られておりますね。京の都(みやこ)では、梅が咲くと東風(ひがしかぜ)が吹いてくるのが普通だったのかというと、そんなことは特になかったし、今でもそんなに普通では“ない”のでは、と言われておりますね。道真公の『東(ひがし)』という言葉の使い方、もちろん非常に文学的芸術的であって、これはもう秀作中の秀作と言うしかないですけども、東の意味が今とは少しニュアンスが異なっていた〜・・・東西南北ではなく、東南西北のそれぞれに春夏秋冬を充てていた、ということでありますね・・・・・

              ウッキーの高校時代からの親友にファーストネームが『和東』という名の男がおります。「かずはる」と言います。珍しい名前ですから、誰もが知り合って直ぐに名前の由来を聞きたがる。“出典”を聞いて誰もが『ほ〜』と感心しておりましたが、何年かして“真実”を知って笑ってしまいました〜・・・もちろん、彼のオヤジさんは古典にも通暁した粋人であったことは間違いない、しかし同時に“遊び人”、と言ったら語弊があるけど、ちょっとした“芸達者”だったのですな、『男の子が生まれた!』と連絡を受けた時、オヤジさんは麻雀の真っ最中! そして、満貫(まさに満願!)で上がった瞬間だった、しかも“東家”、すなわち‘親’であった!!

              麻雀では“上がる”ことを『和了』『和る(あがる)』と表記されます。これ以上ないという命名!

              蛇足ながら、

              この和東(かずはる)君、麻雀はおろか一切賭け事をやらない超真面目人間なのです。オヤジ殿を見ていて『これはアカン』と思ったから? いえ、オヤジさんは麻雀の他にビリヤードも上手で、賭け事にはあまり負けたことはなかったそうな。堅実に代々の家業もずっと続いております、念のため。

               

              閑話休題、

              道真公の秀歌、最後の部分ですが・・・

              『春を忘るな』or 『春な忘れそ』、どっちや!?

              ということが毎年この季節になると話題になります。古くて新しい命題と言えるかもしれませんな。

              しかし、どちらが正しい、なんていうことはここでは問題にはいたしません、こんなところで問題にしたってね、答えが出る訳でもありませんし、どっちだって構いはしない、、、

              それよりも、

              皆さんはどちらがお好きでしょうか?

               

              UKI氏は『春な忘れそ』派。

              どうしてか?

              単に語感が綺麗と感じるから。

              そう、平仮名の三文字が違っていることによって受ける感じがまるで違いますね。文法的な違いというのはまるで分かりません。『・・な』と言われるのと『・・そ』と言われること、どちらがより強い命令形になるのか、それすら良く分かっておりません、いえ、『命令形』なんてことをまるで考えはしなかったですな、そんなことはどうでも良いと言いますか、これは命じているのではなくて、『お願い』でありましょう。そして、心の底から願っていることは、“春を忘れないこと”ではなくて、京から大宰府に梅の香りを“東風に乗せて送り届けること”でありますね。有り得ないことを知りつつも、絶対に不可能と分っていながら、言わすにはいられない思いを『そ』に託しているのではないのかなと思いますね。そして、もう一つ指摘したいのは、この短歌に籠められた季節感なのではと思います。東風、梅、匂い、という言葉から第一に連想される言葉は、『早春』。これでありましょう。その早春の、まだ冷たい空気の中に感じられるわずかな暖かさと春。それらをすんなりとイメージできると言いましょうか、一輪ほどの暖かさを感じることの出来るのは、絶対に『春な忘れそ』。そして、三文字の平仮名の中でも特に『春な』の『な』、ではないかと思うのですね。『を』では、全般的な春、早春とは限定されないような気がします。

              そうです、これは絶対に、『春な忘れそ』でないといけない!!

               

               

              薄氷

               

              季語というのはホントFantasticと言いましょうか、

              美しい季語のパッ見の感じは、何となく綺麗なカラーダイヤの輝き、色味に似ていると感じることがあります。季語の意味やら、その出典を知らずとも、視覚で感じるだけで十分に満足してしまっているという時がある。「薄氷」もそうですね、初めて見た瞬間から惹かれてしまっております。

              季語としては、「うすごおり」や「はくひょう」とは言いません、

              『うすらい』、

              でもウッキーは、『薄氷』と書いて『うすらひ』と平仮名が付けてあるのが一番ズキンと来る。なんとなく、Greenish Blueの淡い色味が柔らかい陽の光にキラっとしたような気がするのですね、胸の裏の方がちくっときた感触があるのです。

               

              ところで、

              そのGreenish Blueの彩度は?

               

              あへて彩度は申しません、Fancy以上ではない、これは歴然としておりますね、

              Fancy Lightから下。

              そしてその彩度は、時間によって違うだろうし、見る時の気持ちによって大きく違ってくる。

               

              さて、『うすらひ』に関わり有る無しではなく、

              VividからFaint(フェイント)まで、色々たくさん見てきますと、

              一番美しいと感じるのは、どんなカラーであっても、

              Very Light Fancy Light

              なんですな。

              それを強く感じるのは、立春から2週間後の『雨水』までの間、

              これは面白い現象であると、毎年のように感じております。

               

               

               

               

               

              | ukitama | - | 16:32 | comments(0) | - | - | - |
              ダイヤモンド今昔物語ーその15
              0

                 

                    ―前回の続き―

                 

                198X26日、原田商事大阪支店の矢沢は“鑑定屋めぐり”をしていた。大阪支店のパシリ(使い走り)は、一番若く社歴が浅い矢沢の仕事と暗黙の了解があるようだった。事務職の女子社員までが『矢沢クン、これ』と、遠慮なく“お使い”を命じてきた。矢沢は、『この唾棄すべき時代錯誤的封建的年功序列的旧世代的因習的保守的体育会系的前近代的旧弊!!』と強く思っていたけど、営業で大した実績がない現状では遺憾ともし難かった。一つ年上の先輩の堂前清に『ちょっと酷くないですか、一日中パシリやってる日もあるんですよ〜』とボヤいてみたが、『お前の身体(からだ)は軽そうで、動き良さそうやし、顔もかわいいから、皆なんでも頼みやすいのやろ』と笑って、まともに相手してくれなかった。41日に新入社員が入って来ると聞かされていたが、どうだか分からなかった。前年の41日に大阪支店に配属予定だった新入社員は札幌支店と福岡支店に行ってしまって、大阪へは一人も配されなかったのだった。大阪支店の営業成績が横ばいであることが主たる要因だった。『大阪の人員は余ってるんじゃないのかな。若くて活きの良い者がいたら本社に転勤させた方が良さそうだ』と社長が公言しているという話も伝わってきていた。それを聞いて『本社に行けるかも』と喜ぶ社員もいたが、『しっかりしろ!』という社長の大阪支店に対する強いメッセージに違いなかった。

                 

                矢沢は心斎橋から地下鉄御堂筋線に乗って、新大阪の一つ隣りの西中島南方に向かっていた。大阪のビジネスの中心の外側、淀川の“向こう側”、東京などからの出張族がよく利用するビジネスホテルや、‘いかがわしい’風俗店が多いエリアに、AGT大阪支店があったのだった。いくら業者相手の鑑定屋とは言え、宝石関連の企業が事務所を構えるような場所では到底なかった。AGT経営者のセンスの無さがうかがい知れた。大阪の“ジュエリーTown”が心斎橋エリアの南船場であることは自明なのに、何を考えてそんなところにAGTは大阪支店のオフィスを置いたのか、大阪の宝石商たちは皆あきれていた。しかも、南船場からAGTに行って帰るだけでちょうど1時間掛かるのだった。全く呆れ果てたことに、AGTはこの何年か先、昭和が終わってもまだ西中島南方から動かずにいた。平成になって1,2年して後ようやく大阪支店のオフィスを南船場の“端っこ”に移転させたのであった。矢沢は、AGTのあと、心斎橋エリアにある中央宝石研究所とOGSOsaka Gem System)にも行かねばならなかった。ソーティングや鑑定移行の依頼、または、それらの出来上がり分の受け取り、依頼と受け取りの両方、それらのことしか鑑定屋に用のない矢沢であったが、矢沢はどうにも鑑定屋の女子社員、受付嬢たちが苦手だった。AGTの女性たちはまるで“色気”というものがなく、加えて愛想もなく、まだ市役所の方がマシだと感じていた。中央宝石研究所は、社員教員には全く興味がないのか、あまりに粗雑で非常識だった。この前は、グレーディングされてないルースが何個か入った小さなボックス2つをカウンターに出したら、こちらがどのようなグレーディング依頼なのかを説明する前に『ソーティング?』なんて言ってきた。せめて『ソーティングですか?』と言いやがれ、とムッとなった。『ちょっと待てよ。これから言うから』と声を荒げてしまった。グレードによっては、ソーティングの上がり即鑑定移行という物もあるからだった。依頼主の署名をする時、ボールペンを投げられた。『原田商事 矢沢』と書いて、ボールペンを受付嬢のポッと開いた口に差し込んでやろうかと思った。

                 

                OGSの女子社員は、何か不満があるのか常に不機嫌で、やたらイライラしていた。矢沢の少しの言い間違いや認識不足を、重箱のスミを突っつくように指摘し糾弾した。他社よりグレーディングに時間を要することが多かったから、『もう少し早く出来上がらないものか』と言うと、『文句があるのなら他所に行け』というような言い方をされた。ほとんど毎回のように気分を害された。OGSから出た後のエレベーターの中では『しばくぞ!』と叫んで、エレベーターの箱のどこかを蹴りつけていた。矢沢が蹴らないような箇所にも“キック痕”が残っていた。『皆、嫌な思いをしてるんだろう』と確信した。『俺が管理職になったら、絶対にOGSなんて使ってやらない!』という思いは毎回強くなって行った。

                 

                大阪の宝石鑑定屋の草分けとして認知されていたOGSは、デパート関連では“老舗”としての強みを誇っていた。しかし、その他一般の流通網、輸入屋から卸屋、中小規模の小売店という流れの中では、関西でもAGTと中央宝石研究所が大きくシェアを伸ばしてきていて、OGSは苦戦を強いられるようになっていた。OGSが大阪と関西エリア限定的なのに対して、AGTと中央が東京本社で、日本全国への発信がより有利であったことが一番の理由であったが、OGS代表の片山に対する巷の評判の悪さも大きな要因のひとつだった。何年か前、OGSと片山は税務署から目を付けられ、大掛かりな査察にあった。とにかくOGSは儲かり過ぎていた。大阪エリアのダイヤモンド・グレーディングのかなりの部分を占有していた時期があったからだった。業界のウワサでは、3年間の脱税による追徴金は、OGSと片山個人合わせて数千万円にも達した、ということであった。片山はその大金を眉ひとつ動かさずに即納したそうで、それがいっそう大阪の業者の反感を買ったのであった。また、片山は確かに商売上手であったが、片山の鑑定士としての知識、ダイヤモンド・グレーダーとしての実力には時おり疑問符が付けられていたのだった。実際のところ片山は、やっとのことでGIAを卒業することが出来た劣等生だったのだ。

                 

                196X年、アメリカ西海岸、GIA構内、

                片山は、何とかGIAの入学金と授業料を調達し、就学ビザを取得してアメリカに戻っていた。片山にGIAの存在を教えて、この場所に最初に連れてきてくれたサラ・エデルマンは、既に卒業していて会うこともなかった。バイトしていたレストランに行けば会えるかもしれないと思ったが、特に会いに行きたいとは思わなかった。それほどに西海岸での“遊学”は楽しい日々だった。しかしその楽しい生活も終わりの時が近づいていたのであった。

                 

                片山はGIAの事務室に呼び出されていた。

                Mr. Katayama、今回が貴方の最後のチャンスです。今回の試験で及第点を取れなければ、貴方はGIAからKick Out(除籍処分)となります」

                「えっ!? なんですって??! 私は授業料を全額支払い済みです」

                「それは全く関係ありません。卒業試験を3度失敗すると除籍、退学、放校となることは校則に明記されております」

                「し、し、知らなかったーー。今回ダメだと、もうここにはいられない?」

                「残念ながらそういうことになります。それと、付け加えますと、放校となった時点で、貴方の就学ビザも失効します。もし放校処分となった場合は、速やかに帰国しないと不法滞在で逮捕されることになります、念のため」

                いきなり冷水を浴びて目が覚めたら、断崖のそばで寝ていたことに気が付いたようなものだった。

                 

                試験開始まで1時間もなかった。講義で使っていたテキストを開いたが、まるで頭に入ってこなかった。ここまで一体、何がいけなかったのだろうと考えた。英語はほぼ理解出来ていた。授業内容も理解していたはずだった。ただ、あまり予習復習をやらず、それは小学生の頃から中学高校大学を通しての“習慣”で、生徒学生たちに‘超甘、激甘’だった日本の高校大学の続きのような感覚で滞在していて、試験となってもそれほど重要なこととは感じていなかったのだった。授業以外では、ほとんど勉強らしい勉強をせず、卒業試験に落ちても、何度か受けているうちに合格点を取れるのだろうと楽観していた。2度目の卒業試験にまた落ちた時、合格した“同期生”たちから『お前、ヤバいぞ』と言われても意に介さなかった。“3度失敗⇒退学”、というルールを知ったのは本当に今日だったという能天気ぶりだった。

                 

                試験が始まっても、なかなか集中できなかった。記憶にあったはずのことが思い出せなくて涙が出そうになった。運転免許の試験と同じで、他の者の出来は関係なかった。定められた得点以上を取りさえすれば良かった。ただし、85分か9割か知らないけど、とにかく高い正答率を求められていることは間違いなかった。出来たとも出来なかったとも言えぬままに試験時間が終了した。結果発表は2時間後だった。もう居ても立っても居られない気持ちだった。朝から何も食べてないことを思い出したが、食欲なんて皆無だった。

                 

                2時間が経過した。掲示板に合格者の学生番号が張り出された。片山は自分の番号を見つけられなかった。何度見てもないような気がした。穴が開くほど見たけど、やはりなかった。失意のうちに立ち去ろうとして、視線を下げたところ、“欄外”に自分の番号を見つけた。何か文章が添えられていた。『これら4つの学生番号の者は事務室に来るように』と書かれていた。最後のご挨拶なんだろうと思った。ひょっとしたら、卒業できなかったから、いくらかでも授業料の返金があるのかなと推測した。どんよりとした気分と重い足取りで事務室に行った。他の3人は既にどこかに行った後のようだった。片山が行くと、直ぐに教室の一つに案内された。誰もいなかった。待つことほどなく、見覚えのある講師が事務スタッフ二人を従えて入ってきた。“ものものしく”三人も、と思ったが、深くは考えなかった。

                 

                講師は、片山にニッコリと笑って言った。

                Have a seat.

                 

                顕微鏡とデイライト、それにスケール(電動秤)、Size Gauge(計測器)、そして白いパッドが置かれている広い机の脇に腰を下ろした。

                Mr. Katayama、貴方の試験結果は芳しいものではありませんでした。しかし今回の試験は難易度が高く、合格ラインを超えた者がいつもの約半分しかいませんでした。そこで、ほんのわずか合格点に届かなかった貴方たち4人に追試をして、結果が良ければ合格とすることにしました」

                「ま、まさか・・・、本当に?」

                Yes、本当のことです。ただし、問題は1問だけです。これに正解しないと、貴方は完全に終了です。卒業できずに放校となります」

                 

                またもや片山の心臓は激しく鼓動を鳴らし出した。ジェットコースターのような一日だった。情況に付いて行くだけで精一杯だった。頭の中がグチャグチャになっていた。ダメで元々だと思う気持ちと、チャンスを逃したくないという思いが交互に浮かんでは消えた。

                 

                講師は、白いパッドの上に鮮やかな緑色の石を置いて言った。

                「これは誰が見てもエメラルドですね。このエメラルドが、Natural(天然)か、それとも、Synthetic(合成)なのか、答えてください。問題はそれだけです」

                「時間は?」

                10分以内です」

                 

                ゆっくりしている時間はなかった。スケールに乗せた。5.74crtsだった。サイズを計測した。縦横11.3 – 11.1mmだった。そこそこ綺麗な色味だった。肉眼でもいくつかのインクルージョンが見えていた。次にルーペで見た。新たな発見は何もなかった。顕微鏡で舐めるように眺めたが、インクルージョンがやたら大きく見えるだけだった。その時点で既に5分以上が経過していた。片山にはサッパリ判断がつかなった。もう少し真面目に勉強しておいたら良かったと心底後悔した。今度こそ完璧に断崖絶壁の間際まで追い詰められたような気分になった。心臓が喉から飛び出しそうだった。何とか気を取り直し、まだ5分近くあると思い直した。二者択一、丁半博打と一緒、勝つ確率は5割もあるのだから何とかなると考えた。これだけインクルージョンがあるのなら天然であるべきと思った。いや、待てよ、GIAが、こんな大きな天然エメラルドを持っているだろうか、もし天然なら、市場価格はとんでもなく高いのではないのかと思った。そうだ、有り得ない、GIAがそんな高価な物を教材として所有しているはずがない。

                絶対に合成だ!

                確信した。

                 

                片山は自信たっぷりに叫んだ、

                Synthetic!!」

                 

                Congratulations! 卒業おめでとう!!」

                 

                あまり冴えない片山の新たな旅立ちだった。

                 

                 

                     ―続く―

                 

                 

                 

                 

                | ukitama | - | 07:42 | comments(0) | - | - | - |
                ダイヤモンド今昔物語ーその14
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                  198X23日、New York時間午前10時、原田商事NY駐在員の遠藤武史は、5番街47street付近にあるビルの27階にいた。いつものように目の前の高層ビル群は圧倒的な魅力で遠藤に迫ってくるのだった。取引先のオフィッスの1室、ここは全くの偶然なのであろうが、位置も角度もNYらしさの際立つ風景を見るのに抜群の場所だった。ここより良い場所を遠藤は知らなかったし、いつまでも見ていたいと思った。東京本社の連中からは『かぶれ』だの何だのと言われていたが、遠藤はNYが大好きだった。もし会社から帰国命令が出たら、自分はそれに素直に従えるのかどうか、全く分からなかった。そうなったら自分はどんな選択をするのだろうか、それは神様だけがご存知としか今は言えなかった。

                   

                  遠藤は、甲府のジュエリーメーカー経営者の長男として生まれた。遠藤の父親は堅実な無借金経営を続けていたから、従業員が20名足らずの小さな会社であっても厳しい競争を生き抜いて来られた。小さい頃から父の仕事ぶりをずっと見てきた遠藤だった。自分もこの工房に入って父の跡を継ぐのだろうと思っていたが、将来の展望は必ずしも明るいものではなかった。父親は、後継ぎの長男と会社の未来を考え、遠藤に様々な経験を積ませようと考えた。ファーストステップはアメリカへの留学だった。留学から戻った遠藤は、父親の期待通りに次のステップとして原田商事に入社した。自分が入社したことで、原田商事から安くて質の良いダイヤが買えるようになったと喜び、NY駐在が終わったら甲府に戻って来てくれるものと信じている父だった。しかし、東京本社にさえ戻りたくないと思っているのに、甲府の会社を継ぐことなんて問題外だと遠藤は思い始めていた。

                   

                  そんなことは今どうでも良かった。10日後Antwerpで開かれる駐在員会議が問題だった。4月からの新年度の数値的な目標と、それを達成するための具体的な業務内容を述べねばならなかった。社長が何としても上場を目指しているのであるから、現状維持なんて言うことは全く論外だった。

                   

                  日本の本支店の営業マンから遠藤への要望は、GIA付きDカラーIFなどの単にハイグレードな商品がメインではなくなって来ていた。以前は遠藤の買い付けで、原田商事の独壇場と言えたGIA付き商品であったが、他社もどんどんバイヤーをNYに送り込んできたせいで、旨味が少なくなってきたのであった。このところは、『AGTや中央宝石研究所に出し直してグレードアップする物』という指示が頻繁に送られてきていた。GIAのグレーディングは、グレーダーの数が多いせいで、バラつきが激しかった。鑑定書にはVS2と書いてあるものの、テーブル内部にあるインクルージョンはどうみてもSI2のものだったり、Gカラーのようにも見えるDカラーがあったりする一方、10倍のルーペで見てまるっきりインクルージョンの見えない物がVVS2となっていて、顕微鏡で確認してIFだろうと確信し、買って東京に送ったら見事に当りだったり、“Cカラー”と言えるようSuper clearEカラーと判定された物もあり、時にはColor & Clarityで合計3ランクアップという物もあったりで、そういう“間違い探し”には事欠かない毎日であった。為替レートが大きく円高に振れ出し、日本からの要望がどんどんエスカレートしてきた。2crts以上の物に対する注文が1crtを上回る週もあった。この調子なら、何も具体的な方策などは不要で、『自然増』という感じで事足りる、努力なしでも遠藤のノルマは達成可能ではないかと思われた。しかし、それは楽観的過ぎるし、社長に『自然増でOKです』なんて言ったら、『分かった、キミはもう日本に戻っていいよ』と言われるに違いなかった。

                   

                  New Yorkの街は3日後に迫ったNFLのスーパーボウルの話題で持ちきりだった。NYジャイアンツがリーグチャンピオンとなってスーパーボウル進出を決めていたからだった。相手はデンバー・ブロンコスで、ブックメーカーのシーズン開幕前の優勝予想オッズは、ジャイアンツが9.44、ブロンコスが31.50だったから、3日後の日曜の夜にはNYの街は大騒ぎになると予想する者が大多数だった。ダイヤモンドを生業とするNYのユダヤ人たちも例外なく皆、胸を躍らせて週末を楽しみにしていた。MVPは誰になるとか、両チームの合計得点とか、個人的に賭けをする者も多く、遠藤も何口か付き合わされていた。遠藤はスポーツに全く興味がなく、アメリカンフットボールはおろか野球のルールさえあまり知らなかった。遠藤は小さい頃から音楽に親しみ、ピアノも習っていた。高校に進学する少し前からはJJジョンソンに憧れ、入学と同時に軽音楽部に入って迷わずトロンボーンを始めたのだった。就活で原田商事の面接を受けた時、営業本部長から『尊敬する人は?』と聞かれ、迷うことなく、

                  JJジョンソンです」

                  と答えた。本部長は『えっ? 誰??』という顔をしたが、社長が『ほう』という顔で大きく頷くのを見て黙った。きっと本部長には嫌われ、社長に救ってもらったに違いなかった。原田社長は、社内を自分の色に染めることを望まず、多彩な色に富んでいることを好んだ。社員の採用にあたっては、学歴やペーパーテストよりも、一芸に秀でた者を選抜するよう人事担当者に命じていた。遠藤は英語も達者だったが、原田は英語力よりも自分が長年にわたって音楽に取り組んで来たことの方を評価してくれたのではないかと感じていたし、それの方が遠藤には嬉しかったのだった。『NYに出張することがあったら、是非とも遠藤クンお気に入りのジャズが聞ける店に連れてってくれよ』、NY赴任前に社長から言われたひと言を思い出していた。

                   

                   

                  同じ頃、Tel Avivは午後5時だった。1日の仕事が終わろうとしていた。明日は金曜、日没から始まるシャバット(安息日)のために、ほとんどのオフィスは午前で業務を終えなければいけなかった。シャバットは土曜の日没まで続き、その24時間、ユダヤ教の戒律が一番厳しい宗派に属する者は、食事のための煮炊きさえしてはならず、とにかく一切の労働をやめなければならなかった。旧約聖書の『創世記』に、“こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第7日にその作業を終えられた。すなわち、その全ての作業を終わって第7日に休まれた”とあり、また『モーゼの十戎』にも“安息日を守れ”という記述があるところから、ユダヤ人は、土曜を『安息日』、休日と“しなければいけなかった”のであった。AntwerpNew Yorkのユダヤ人たちは欧米の習慣に合わせて、金曜の日没近くまで働いて、土日がお休みとしている者が多かったが、“本家”のイスラエルでは、金曜の午後から休みで日曜は出勤、というのが普通だった。

                   

                  木曜の夕刻、実質的に一週間の仕事が終わりということで、泉はフっと気が抜けた状態だった。最近ではもう何を見ても驚かなくなっていたが、今日は久しぶりに驚愕した泉だった。3個の1crt、全てマーキースで、Blue, Pink, Green1個ずつ、大きなルースケースの中にメルセデス・ベンツのマークを形作っているかのように並べられていた。3つ全てが色濃く鮮やかだった。Proportionも美しく、大きさとシェイプも良く揃っていた。これこそ、何年か前にイランのパーレビ王朝に持って行けば直ぐに言い値で買ってもらえたであろう超逸品の輝きであった。

                  How much?

                  $100,000

                  もちろん3個合計10万ドルではなくて、1crtあたりの価格だから、合計金額は約30万ドルということであった。もしこれを買って東京に送ったら、社長は何と言うのだろうと一瞬だけ想像してしまった。『狂ったか!』、『おもしろそうだな』、『お前はクビだ!』、『よくやった』、『自爆テロに等しいぞ!』、『素晴らしい、One More Set買え』、etc・・・、いや、どう考えても誉められることはなさそうだったし、もちろんこれを買うなんていうことは0.1%も有り得なかった。しかし夢のある商品だと強く感じた。原田商事の資金力からすれば問題なく買えるし、買って5年か10年、金庫に寝かせておけば、絶対に大きく利益に貢献するものと思われた。しかし、そういうことを言うのは憚られた。泉には“前科”があった。Tel Avivの経験が浅い“出張バイヤー”の時、ラウンドのPinkを買ったのだった。ピンクダイヤを見るのは初めてのことだった。淡い色味だったが、色性質スッキリで桜色の可憐な艶やかさであった。見せられたのは0.3crtから0.5crtまでの9個だった。一番良い色の物を選んで値段を聞いたら『$30,000 (/crt) と言われた。冗談だと思った。『$3,000』と言ったら、商品を片付けて帰りそうになった。『ちょっと待ってくれ』と言った。この時点で『負け』だった。もう一つ選んで『$5,000』と言ったら『$18,000』と返ってきた。もう一つ追加して『$7,500』と言ったら、『$15,000』まで下がった。初めて買うアイテムに出し過ぎだとは感じたが、頭の中がピンク色に染まり出していた。3個でも多過ぎるはずだったし、恐らく『$10,000』と言えばMazal(売買成立)になるのだろうと確信した。そこでちょっと醒めた感覚になった。『やっぱり止めておこう』という気になった。売り手のブローカーはそれを敏感に悟ったようだった。

                  Let’s do business」「How much is your best?」「Tell me, Do not hesitate.

                  矢継ぎ早に言われ、泉は言ってしまった。

                  $9,000

                   

                  OK, Mazal

                  『やられた!』と観念した。

                   

                  泉が買ったのは、0.3crt1個と0.5crt2個だった。東京に帰ってAGTに出したら3つとも見事にLight Pink VS2だった。円換算の原価(Price/crt)は軽く100万円を越えていた。何軒もの卸先に見せて回ったが、『綺麗だね』と言ってくれるだけで、全く値段交渉にもならなかった。カラーグレードが良くないせいだろうと思って、マイナーな鑑定屋にソーティングを出した。Fancy Pinkになった。改めて営業に出たが、反応は同じだった。結局のところ、グレードは関係なく、ピンクの色そのものが見えてない人が多いということが分かったのだった。これらは一体いつまで売れずに残るのだろうと暗澹たる気持ちになった。他に“余計な商品”は買い付けていなかったし、他の物で利益出しているからと自分を慰めた。しかし、どうも居心地は良くなかった。そんな時、名古屋支店の“凄腕”営業が東京本社にやってきた。何か面白い物が金庫にないかと物色していたから、泉はすかさずPink3個を勧めた。『なんだ、買い付け失敗したのか』とズバリ言われてしまった。

                  「そうなんです、すいません、よろしくお願いします」

                  「来月にデパート催事が続くから、やってみるよ。高いけど、あまり見ない商品だからな」

                   

                  凄腕氏はまさに凄腕だった。原価の高い物なのに、しっかりと利益を乗せて、3つを完売したのだった。泉は安堵して、ピンクダイヤなんて2度と買うまいと強く誓ったのであった。しかし、喉元過ぎればなんとやら、また泉の軽率で楽観的な性格が時おり買い付け現場に出て来ることを抑えきれそうになかったのであった。

                   

                   

                  同日の同じ頃、ベルギーはイスラエルより1時間遅れ、午後6時だった。原田商事Antwerp駐在員の高瀬は、ハイウェイを飛ばしてオランダとの国境に向かっていた。目的地はベルギーからほんの僅かにオランダに入ったところにある小さな街だった。単身だが仕事ではなかった。もう完全に夜と言っても良い暗さだった。高速道路の照明をまぶしく感じながら車を走らせていた。走行車線脇の電光掲示板が『マイナス2℃』を表示していた。形ばかりで全く使用されていない“国境ゲート”を横目で見ながら通り過ぎた。いつ来ても、日本の都道府県境を通過するよりも分かり難い気がした。日本の都道府県境は、海峡や峠やトンネルや川がその“印”となっていることが多いが、ベルギー・オランダの国境は全くと言っても良いほど何もなく、真っ直ぐな道路がずっと続いているだけだった。暗くて見えないが、周囲は平原か農地がどこまでも拡がっているはずだった。Bredaという町の名前が記されたボードを過ぎ、高瀬は車のスピードを落とした。昔は領主の館だったのか、それとも豪農の住む家だったのか、古くて大きな建物の前に車を停めた。いそいそとドアを開け、館の中に入った。時間が早いこともあって、まだ開店してないようだった。

                  Good evening, Mr.

                  How are you?

                  Hi, everything OK?

                  スタッフたちから愛想良く声を掛けられ、高瀬はバーカウンターの止り木に腰を下ろし、ビールを注文した。

                   

                  何か月か前から始まってしまった“手慰み”だった。良くない事と分っていながら、“ハマり込んで行く”自分を止めることができなかった。これまでここで“すって”しまったお金は1カ月の給料分ほどにもなったから、決して少額とは言えなかったが、高瀬は『まだ大丈夫』と思っていた。負けの日が3回続いたらやめようと思っていたが、どういう訳か2回の負けの後、3度目は必ずと言って良いほど勝ったのだった。カジノのスタッフの巧妙な“遣り口”ということを薄々感じてはいたが、自分で自分を誤魔化した。そのうちに、1度の負けの後に2度の勝ちが来るようになると信じて疑わななくなっていた。オランダではカジノが違法ではないどころか、公営のところもあり、ホテルによっては様々な賭け事を用意しているところがあった。ここは、Bredaの中心部からかなり南の国境付近にある“村”としか言えないような集落にある小さなカジノだった。ルーレットの台とブラックジャックの卓がひとつ置かれているだけだった。それでも、Antwerpから車で約30分の距離だったから、週末の夜はベルギー人の客で賑わった。ベルギーではカジノは違法で、時おり“手入れ”が行われ、なんと、高瀬は、3か月前にAntwerpの違法カジノにいたところに折り悪く“ガサいれ”があり、‘開帳’していたヤクザたちと一緒に検挙されていたのだった。Antwerpの日本料理店で知り合った兵頭という日本人の男と一緒だった。兵頭は、Antwerpの隣町のMechelen(メヘレン)に工場を持つ日本の大手電機メーカーの管理職だった。“手慰み”の一切合切は兵頭から教えてもらったのであった。Antwerp警察の捜査員に踏み込まれた時は当然ながら“賭場”が一番盛り上がった時であった。ルーレットの球が“0”に落ち、そこにかなりのチップを掛けていた兵頭が大勝ちした瞬間だった。Antwerpの日常語であるFlemish(フラマン語)の大きな声が聞こえて、賭場が一瞬で静まり返った。ヤクザたちがホールドアップした。高瀬と兵頭も思わず両手を上げた。ほんの数秒の間に周囲が武器を持った警察官で満たされた。ヤクザたちから順に外に連れ出されて行った。行先は聞くまでもなかった。高瀬と兵頭も、銃を突きつけられることはなかったが、『さあ、行くんだ!』と英語で言われ、背中を押された。高瀬は少額をすってしまって、この先どうしようかと逡巡していたところだった。兵頭が獲得したであろう大金は水泡に帰した。兵頭は『お、お、俺の金!』と日本語で叫んでいた。なんとかなるはずはなかった。高瀬は不安で心臓が凍り付きそうになりながら、また、大笑いを堪えるのに大変だった。

                   

                  留置場に入れられるのだろうと投げやりな気分に浸っていたが、直ぐに取り調べ室に入れられた。国籍と名前と滞在目的を聞かれた。ベルギーに1年以上住んで働いていると言うと、就労ビザを確認された。日本なら警部か警部補なんだろうと思われる男が言った。

                  OK、日本人の貴方たちは今回が初めての検挙ということで、罪に問われることはありません。しかし、次回またこの場所に来るようなことになると、ベルギーから強制退去になります」

                  「わかりました。二度としません」

                  心底ほっとした。高瀬も兵頭も頭を垂れ、神妙な顔を作った。写真を撮られ、指紋を採取された。『やれやれ』と思って帰ろうとしたら、『その前に』と呼び止められた。参考人としてヤクザたちの“面通し”をさせられたのであった。

                  「マジックミラーの向こう側にヤクザたちを一人一人連れて来るから、そいつらが賭場でどんな働きをしていたのか教えろ」

                  と言われた。代貸(だいがし)らしき者とルーレットのディーラーだけはハッキリとしていたが、明るい場所ではなかったから他の連中は何をやっていたか良く分からなかった。『しっかりと思い出せ』と取調官に言われたが、なんだかヤクザたちに悪いような気がして気分も乗らず、『すいません、わかりません』と何度も言って謝って、ようやく解放してもらった。アパートに戻ったのは午前1時過ぎだった。

                   

                  そのような経験をすれば、多くの者は『神様からの警告に違いない』と感じ、博打を極力控えようとするものだが、高瀬は全く懲りなかった。『二度としません』はベルギーの中での話だと開き直った。翌週にはもう兵頭を誘って国境を越えていたのであった。毎月、必ず一人か二人の社員が原田の本支店から買い付けに来た。彼らの滞在中は、誰であろうと必ず1回は賭場に連れて行った。嫌がる者はいなかった。男に生まれてきたからには『打つ』ことも必要悪、いや、必要不可欠なんだと感じていた。勝ってたくさんのチップをもらえることが嬉しい訳ではなかった。負けた時は、舌を這い登って来る苦い感触と、手足から血が引いてゆくような心地がしたが、自分が選んだ数字に球が落ちて大勝ちした瞬間、自分の掌(てのひら)に世の中が乗っかっている気がするのがたまらなかったのだった。

                   

                  見覚えある常連客が三々五々と集まって来た。ディーラーが位置に付いたようだった。高瀬はビールを飲み干し、止り木を降りた。

                   

                      ―続く―

                   

                   

                   

                   

                   

                  | ukitama | - | 15:45 | comments(0) | - | - | - |
                  ダイヤモンド今昔物語ーその13
                  0

                     

                         ―前回の続き―

                     

                    198X21日、インド、Surat、西川は鉄道の駅舎から少し出たあたりで迎えの者が来るのを待っていた。午後1時を少し回ったところだった。Suratは、Bombayの北約200キロのところに位置するということで、日本人的な考え方からするとBombayよりも少し涼しく凌ぎ易いということになるが、実際は北緯21度、北回帰線の“内側”になり、Bombayと何ら変わりはなく厳しい暑さだった。それでも春分の1カ月半以上前ということで、日射しに角度があり、駅舎から少し出たところでも日陰の中に入っていることが出来た。列車の到着と出発が重なって、駅舎の中は凄まじいまでの混雑だった。インドに憧れ、念願叶ってBombay駐在員になったとは言え、これほどまでの人の多さと臭気は予想外だった。ほとんどのことには慣れてしまった西川であったが、疲れている時には耐えがたいことも多かった。『俺としたことが。2等車に乗ったのは大失敗だった。帰りは絶対に1等車の切符を取らないとダメだな』と強く思っていた。『しかしまあ、200キロの距離を5時間とは。新幹線なら1時間なのに。しかも1日に数本しかないんだからな』。23年前、東京にやってきたBombayのダイヤモンド業者が、社長や営業本部長と懇談の後、大阪の顧客を訪問したいと言うので、見送りに東京駅まで行ったことがあった。新幹線の切符売り場に並びながら彼は聞いてきた。

                    「西川さん、大阪までの新幹線は何時の発車なの?」

                    What time??」

                    2時間とか3時間待たないといけないの?」

                    No problem、大して待たなくても大丈夫。大阪までの新幹線が1日に何本あるかは知らないけど、So manyですよ。Every 5 minutesの出発と言えるほど」

                    Every 5 minutes?!

                    Yes

                    Every 5 minutes!  Amazing!!

                     

                    大阪方面から東京に向かう新幹線が小田原を過ぎると、必ずなされるアナウンスがある、、、

                    『列車はただ今、小田原駅を〇〇秒遅れで通過いたしました。次の新横浜には時刻通りの到着となります・・・』。

                    〇〇の数字は常に30以内だったような気がする、15秒とか25秒とか。もし日本滞在が長くないインド人が、その車内アナウンスを英語で聞かされたなら、きっと日本人はバカなんじゃないかと思うに違いない、と思って西川は大笑いしそうになった。

                     

                    それにしても迎えの者が遅かった。もう30分以上も駅舎の前に立っていた。何人もの“白タク”運転手が声を掛けて来た。彼らにいちいち『No, thanks』と対応するのも面倒なことだった。Yesと言ってないにも関わらず勝手にスーツケースやバッグを運んで行って車へと“先導”する強引な奴もいたから、寸分たりとも気が抜けない。インドの白タクは多分、犯罪組織に属しているのであろう、実に巧妙な“遣り口”で外国人からゼニを巻き上げていた。西川も、2度目のBombay出張の折りに“やられて”しまっていた。今回のように迎えが来ないまま30分以上が過ぎ、イライラと不安が極限まで達しようかと思った時、白タクの誘いに乗ってしまったのであった。恐らく、“世間知らず日本人”丸出しの様子だったに違いない、彼らにしてみれば赤子の手を捻るより簡単だっただろう、、、西川に声を掛けて来たのは、若く“ナヨッ”とした人畜無害そうな男だった。『こいつなら問題なさそう』と付いて行って後部座席に乗った。スーツケースはトランクに入れられ、キッチリと鍵が掛けられたようだった。夜の10時だった。ドアを閉めようとして助手席に誰かがいることに気が付いた。何となく嫌な気がして、いったん車から出ようとしたが、素早くドアを閉められロックされてしまった。助手席の男が半身になって西川の方を見てきた。声を掛けてきたドライバーとは対極の強面(こわもて)だった。西川の方に太い腕を出してきて『ハロー』と言って握手を求めてきた。仕方なく握り返した。ねっとりとからみつくような手だった。『ちょっとヤバいかも』と思ったが、命まで取られることはないだろうと観念した。

                     

                    Where are you going?

                    New Oberoi Hotel, please

                    OK

                    その後は無言で車は走り続けた。非常に荒っぽい運転で、西川は気分が悪くなってきた。2か月前に一度来ただけだったから、道が合ってるとか間違っているとかは論外で、皆目わからなかった。30分くらい経過した時、助手席の男が西川の方に顔を向けて言った。

                    「俺は、通貨の両替もやってるんだよ。ドルがあったらインドの通貨と交換してやってもいいけど」

                    これは要するに、『ドルを持ってたら出せよ』 ということに他ならないと悟った。手が震えそうになるのを何とかこらえ、西川は財布から10ドル紙幣を取り出し渡した。

                    「悪いなあ、うちは100ドル以上じゃないと交換出来ないシステムになってるんだ」

                    周囲は明らかに貧民街だった、夜も遅い時間だというのに、祭りの晩のような人だかりだった。彼らは国際空港から市街へと向かう外国人から何か“おこぼれ”を頂戴しようと待ち構えているに違いなかった。ヤクザの要求する100ドルに対して、もしNoと言えば、この右も左も分からない貧民街に放り出されるのだろうと確信した。それだったらまだ100ドル失う方がマシだった。追加の90ドルを渡すと、いくらかのインド・ルピーが返ってきた。数えたところで『足りない』なんて言える訳がない。黙ってバッグにしまった。それからまた30分ほど走ってようやく見覚えのある海岸通りに来た。200メートルほど先にホテルが見えてきた。『やれやれ』と思った時、いきなり車が側道に寄って停まった。

                    「あんたももう分かっていると思うけど、俺たちゃ政府公認のタクシーじゃない。ここで支払を済ませてくれるかな」

                    How much?

                    「さっき交換したインド・ルピーをそのまま渡してくれたら済むよ」

                    なるほど、結局100ドルのタクシー代だった訳だ。翌日、買い付けするオフィスで聞いたら通常の15倍ということだった。

                     

                    再び発車した白タクはそれまでの運転がウソのような穏やかな動きになり、New Oberoi Hotelの正面玄関に静かに到着した。ターバンを巻いて伝統的な兵士の衣裳を着たガードマンが車のドアを開けてくれて言った。

                    Good evening, Sir

                    優男の運転手が急いで出てきて、西川のスーツケースをトランクから出して言った。

                    Good night, Sir

                     

                    『情けないSirがあったもんだ』と思ったが、100ドルで済んで良かったと心底思った西川だった。

                     

                    隙間が見えないほど混雑していたSurat駅付近もようやく落ち着きを取り戻してきたようだった。白タクのドライバーたちも西川に近寄って来なくなった。しかし、西川も我慢の限界に来ていた。“正規タクシー”のチケットを買いに行こうと思って駅舎の方へ歩きかけたら、何のことはない、『Mr. Ryosuke Nishikawa』と書かれたボードを持ったインド人の男が立っていた。

                    「おーい、どこ見てんだよ、ホントにもう」

                    Oh, Mr. Nishikawaですね、やっと会えました」

                    1時間近くも待っていたんだけど」

                    Sorry、出がけにね、カミさんから買い物たのまれたのを忘れていて、寄り道してたら道に迷ってしまったんですよ」

                    「あのなあ、オッサン!」

                     

                    『そう、こういうのも含めてインドなんだ』、西川は“インドの魅力”をまたしっかりと噛みしめていたのだった。

                     

                     

                    同時刻のベルギー、アルノンとミカエルは、Brussels国際空港の出発ロビーにいた。二人は、Frankfurtへ向かうSABENAベルギー航空機の出発準備が完了するのを待っていた。ドイツに用事があるのではなかった。二人の最終目的地はインドのSuratだった。流石に『よし、行く!』と決めた後のアルノンの行動は電光石火だった。129日の夕刻に決断し、翌30日には早朝からパスポートを持ってBrusselsのインド大使館の門前に並び、開門と同時にインド入国のビザを申請し、31日の午後にまた取りに行ったのであった。こんな時のために前もってミカエルもパスポートを取得していたのが功を奏した。最初、アルノンは一人で行くつもりだったが、少し考えてミカエルも連れて行くことにしたのだった。ミカエルを一人ダイヤモンド街に置いていくのは少し酷だと思ったし、Suratが仕入れ先として魅力的なのであれば、ミカエルを定期的に行かせるべきと判断したからだった。Suratへ行けと言ってくれたエリック・オースティンとは一昨日のお昼にまた一緒にランチに行って報告したのだった。

                     

                    「しかしエリック、どうして自分の会社でやらないんだ?」

                    「誰が仕入れに行けるんだよ。兄貴は月の半分以上アメリカで、弟はずっとイスラエル、オヤジ一人でAntwerpのオフィスやっていけないしな。お蔭さまで毎週バイヤーが来てるし、これ以上仕事増やせないし、やる必要もない」

                    「羨ましい限りだ」

                    「ところでアルノン、Suratに知り合いはいなかっただろ、取引先は確保したんだろうな、キミのことだから抜かりないとは思うが」

                    Surat行きを決める3日前に、どうであれ準備だけは怠りなくと思ってね、アレキシス氏の下で働いている時に原石を売ったことのあるインド人のことを思い出して、連絡してみたんだ。そしたら、そいつはSuratに研磨工場を持っていて、甥に任せていると言うんだ。でも、100%の信用はできないし、行って見ても全然ダメということもあるし、出来たら、エリック、キミのコネクションも利用させてくれるとありがたい。もともと、キミにコネがあったから俺に『行け』と言ってくれたのだと思うし。もちろん、それなりのことはさせてもらうよ」

                    エリックはポケットからメモを取り出し、アルノンに手渡した。

                    「うちの親父は若いときEnglandに居たんだ。そこで、この会社のオーナーの親父さんと知り合って、ふたりでかなり悪さして遊んだらしい。俺も詳しいところは知らないんだが、毎年、インドの新年になるとGreeting Cardが届いてね、『これ何だ?』ってオヤジに聞いたら、『若い頃の親友だ。Suratでダイヤの研磨工場やってる』、『お前、行きたけりゃ直ぐにでも電話してやるぞ』って。残念なことに、半年くらい前にその親父さんが亡くなったって、息子さんから電話があって、うちのオヤジはガックリ来てたよ。でも、キミが行く気あるのなら、オヤジに電話して頼んでもらうよ」

                    「そのコネは強く太そうで頼り甲斐ありそうだなあ。是非是非」

                    「その代り、アルノン、Suratで良い物見つけたら直ぐにウチに来るバイヤーに見せに来るんだぞ」

                    「分かってるよ、そういう流れになるのは十分織り込み済みだ」

                     

                    ミカエルは、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。23年前まで自分が飛行機に乗れるなんて夢にも思っていなかったから、行先がインドであろうと全く気にもならなかった。目の前に駐機している多くの旅客機に対して興奮を隠すことが出来なかった。じっとしていることが不可能で、歩ける範囲内を動き回っていた。アルノンのCoolな視線を感じなくはなかったが、今日だけは許してもらおうと思った。こんなに楽しいことがあるのなら、この先どんなことがあっても我慢して行けそうな気がした。アルノンとミカエルは、BrusselsからFrankfurtに移動し、午後のルフトハンザ機で約9時間のフライトの後、インドDelhiに午前2時着、そこからまた国内線に乗り換えてSuratに向かう長い旅程だった。Delhi3時間以上の待ち時間があり、2時間ほどのフライトで、Suratには22日、午前7時過ぎになる予定だった。

                     

                     

                    21日、午後5時過ぎ、Suratでの短い初日の仕事が終わろうとしていた。何も買わなかったが、西川は十分な手応えを感じていた。面白いアイテムが多く、ホテルにチェックインした後にしっかりと戦略を立てなければならないと感じていた。好事魔多しと言うし、また、調子に乗ってダイヤを見誤るということもよくあることだった。西川の直属の上司は、3年ほど前、Bombay1crtのブルーダイヤを買って喜んでいたが、AGTにソーティングに出したらFancy Blue Grayと判定されてしまった。実際、確かに青というよりも鉄紺、Steel Grayという感じだった。安ければどうと言うことはなかったが、2万ドルだった。1985年の“プラザ合意”前であったから、為替レートは1ドル220円を越えていた。原価は約450万円だった。売れば確実に損失が出たから、誰も売ろうとはしなかった。未だに金庫の奥に眠っているはずだった。当然それは社長の目にも触れることとなった。原田は何も言わなかった。ひとつのミスを厳しく指摘するのは簡単だったが、それによって社員が委縮することを恐れていた。エラーはファインプレーやタイムリーヒットで取り戻せば良いというのが原田の考え方だった。西川は、上司がその後、何本もタイムリーを打ったのを見てきたが、毎年必ずエラーしていた。『あの人は、野球で喩えるのではなく、ゴルフだな』という結論に達した。バーディーとボギーが交互に来て、パープレーがほとんどなく、たまにダブルボギーで、その直後にイーグルで、結局イーブンパーでホールアウト、常に注目を浴びている“お騒がせ氏”と言えた。

                     

                    西川にSuratの存在を教えたのは大阪のバイヤーの大和慧(やまとさとし)だった。Bombayのバイヤーと言えば34年前から、東の坂東舜二、西の大和慧と言われていた。Bombay市場に長く関係していたいと思っていた西川だったから、Bombay駐在になる直前、彼ら東西の“横綱”とも言える二人に挨拶に出向いていた。Bombayでは、坂東は常に冗談を言っているような男で、いつも周囲に誰か取り巻きの日本人バイヤーがいた。大和は反対に、口数が少なく、“ひとことで決める”タイプで、Bombayに来る日本人のバイヤーたちとはほとんど付き合いはせず、夕食は常にインド人の誰かとだった。西川は、そういう大和に直ぐに惹かれてしまった。大和がBombayに買い付けに来ることを楽しみにして、来たら必ず夕餉を共にしていた。大和も毎回、西川が毎日のように来ているスター・ブルー社で1日か2日は仕事していたから、取りたてて連絡を取る必要はなかったのだった。10日ほど前、待ちに待った大和がようやくBombayにやってきた。教えを請うた。躊躇うでも勿体ぶるでもなく、いくつかのことを語ってくれた。そんなことまで言ってくれても良いのかと言うと、

                    「そんなもん、聞いてきたら誰にでも言うたるでぇ。誰もわしのところへ来よれへんからな、キミだけや」

                    「大和さんはここで日本人のバイヤーとは付き合いませんからね。でも、何かそれに理由があるのですか?」

                    「特にないけども、ひと口で言えば鬱陶しい、ちゅうこっちゃな。日本人バイヤーが海外で口ひらけば、『商品ない、安くない、買えない』、そんな話ばっかりや。年がら年中『ない、ない、ない』言うてる奴らと飯食っても美味いことないやろ。それだけや」

                     

                       ―続く―

                     

                     

                     

                    | ukitama | - | 17:37 | comments(0) | - | - | - |
                    ダイヤモンド今昔物語ーその12
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                           ―前回の続き―

                       

                      196X年、アメリカ西海岸、片山敏郎はGIAのキャンパス入口付近にいた。のちに大阪で他に先駆け宝石鑑定会社を開業することになる片山であったが、この瞬間には全くそんなことに思いも及ばなかった。ひょっとしたら、、、とも感じていなかった、いや、感じるだけの知識がなかったのだった。バイト先の常連客であるサラ・エデルマンの好意に“軽いノリ”で応えたという感じだった。一方のサラは、GIAで勉強して宝石鑑定士の資格を獲得することを真剣に考えていたのだった。GIAに関して知識がない片山を一緒に連れてきたのは、何となく一人でGIAに向かう勇気が出ず、かと言って家族や友人に“弱気”なところを見せたくはなく、少年のような風貌の片山は“片時の相棒”としてちょうど良かったからだった。ふたりは道中、GIAのことを全く話題にしなかった。サラが一方的に自分や自分の家族のことを喋り続けていた。サラは両親から十分に愛されているようだったが、その愛を少し重荷に感じている節があった。また、何か不安を抱えていて、それが彼女のお喋りの原因なんだろうと片山は推測していた。

                       

                      ウェストコーストの青空のような色にペイントされたシボレー・ピックアップトラックを駐車スペースに停めながらサラは言った。

                      「あんたまさか本当にGIAが自動車関連の学校なんて思ってないでしょうね」

                      Oh, My God、信じてました! って言うのは冗談だけど、昨日まで全く何かも考えなかった」

                      「あきれた。そんな風にして日本からNY経由で西海岸まで流れて来って訳ね」

                      「ハハハッ、確かにそうかも。でも、GIAのパンフレットを見るサラさんの目が異様に力入ってたから、これは『きっと良いことある』と感じたんだ」

                      「それで、今はちゃんと分かってるのね」

                      「レストランの店長に、『GIAって何の学校ですか?』って聞いたら、『それは多分、宝石関係だろう』って言ってたけど、合ってる?」

                      「ああ良かった。でも、あのゴリラみたいな店長が知ってたなんて、GIAも有名になったものね」

                       

                      『入学案内』と書かれた部屋で、片山はサラの横に座ってGIA職員の話を聞いていた。サラは出来るだけ早く入学したい旨を職員に告げ、必要な書類や入学金と授業料の支払い方法等を確認していた。サラと職員の話が一段落して、サラがにっこりと微笑んだのを見て、片山は職員に問うた。

                      「日本人の私でも入学は可能なのでしょうか?」

                      「はい、もちろん可能です。ただし、貴方が犯罪者ではなく、また、不法に日本から逃れてきたのではない、ということを証明できなければいけません」

                      「どのようにして?」

                      「一番シンプルな方法は、就学ビザの取得です」

                      「それは、西海岸で取れるものなのですか?」

                      「いえ、一度帰国して、東京のアメリカ大使館に行かなければなりません」

                       

                      入学金、授業料、1年以上になるかもしれない滞在の費用、就学ビザ、etc・・・、

                      クリアしなければならない障壁が多過ぎて、片山にはとても現実的なこととは感じられなかった。ところが、GIA職員の次のひと言が片山を大きく揺さぶったのであった。

                      「我々は世界中にネットワークを拡げてゆきたいと考えています。外国人の受け入れ態勢を整えて、ここから巣立った外国人卒業生たちが、母国でGIA鑑定士として仕事して生活出来るような環境作りを模索し始めました。数年後には東京にGIAの息のかかった宝石鑑定会社を設立する予定です、、、、」

                       

                      片山は、いきなり目の前に開けた大地が拡がっていることに気付いたのであった。

                       

                       

                      198X129日、Antwerp、ダイヤモンド街に夕闇が迫っていた。冬至から1カ月以上経っても、緯度の高いベルギーやオランダでは一向に陽ざしの変化を感じられなかった。陰鬱と思うだけの日々がこれからまだ1カ月以上続き、そのあとようやく春の兆しが見えることとなるのだった。コディアム社のオフィスの窓際に立って、アルノンはいつものように地平線のはるか遠くを見ていた。何かの慰霊碑なのであろうか、高く細い尖塔の先に燃える炎が吹き出しているのをぼんやりと眺めていた。川島とのネゴは紆余曲折を経て何とかMazalに漕ぎ着け、アルノンは30万ドル近い資金を回収することに成功した。しかし、アルノンは今後この事業を継続して行くことに大きな不安を感じていた。これから、どのようなアイテムをメインにするべきなのか、全く見えてこなかったし考えもまとまらなかった。ずっと販売の柱にしてきたロシアもののCleanishを見切ったところだったから、それに対する“喪失感”も大きかったのだった。ミカエルが言うように、メレの販売アイテムを増やすこともひとつのアイデアだったが、それだけでは生きてゆけないことが明白だった。数日前のエリック・オースティンとの会話が甦った。エリックとはミカエルを介して知り合い、まだそんなに時間は経ってなかったが、妙に気が合い、何度も一緒にランチへ行くようになっていた。

                       

                      「アルノン、皆が羨ましがるほど美しい商品を扱いたいという気持ちは良く分かるけど、それにこだわって“つまづいた”のが最近のお前さんだろ。幻想を捨てないと駄目だ」

                      「わかった、わかった、分ったから、もう勘弁してくれ。しかし、それだけしつこく言うのだから、キミには何か良いアイデアがあるんだろうな」

                      「インドに仕入れに行ったらどうだ、アルノン」

                      「ちょっと待ってくれ。それこそ勘弁してください、だぞ。俺はまだ肝炎になりたくはない」

                      Backpackerみたいな貧乏旅行しなけりゃ病気になんかならないよ」

                      「そうは言ってもなァ、そこまでしないとダメなのかという気持ちもあるし」

                      「ステファン・アレキシス氏の懐刀と言われた男のプライドが邪魔をして、素直になれない、ということだな」

                      「エリック、キミも嫌なことをズバッと言うなあ」

                      「アルノン・ゴルダに適切な意見できる唯一の業界人だ」

                      「確かにそうかもしれない。今の俺はホント“一匹狼”だからな」

                      「これまで生き残ってきたのが不思議なくらいだ」

                      「今日は言いたい放題、言われっぱなしだ」

                      「さっさとインドへ行ってこい」

                      「キミがそこまで言うのなら、少しは考える価値があるんだろうけど、行く行かないは別にして、Antwerpでインドものの需要があるのか?」

                      「何を寝ぼけたことを言ってるんだ。当たり前だろう」

                      「当たり前じゃないだろ」

                      「そうだな、当たり前という言い方はおかしい。既に何度も大きな商売を目にしているし、いくつも話を聞いている、ということだ」

                      「マジかよ!?」

                      長年、Antwerpでロシアものや、他では売ってないような質の高いメレを扱ってきたアルノンには信じ難い話だった。Antwerpに来るバイヤーたちは、ロシアものの0.2crtから0.5crtや、Makeがピシッと決まった1crt以上の“Cut & Polished in Belgium”を求めているのだどばかり思っていた。

                       

                      「アルノン、俺も最近やっと分かったんだけど、バイヤーってのはな、1種類じゃないんだよ」

                      「何が?」

                      「彼らの嗜好の話さ」

                      「嗜好もなにも、バイヤーってのは売れる商品を買ってゆけば良いのだろう、違うのか?」

                      「そう、その通りだ。だからAntwerpでインドものが売れるのさ」

                      「なるほど。Makeや生地に凄くこだわって、ロシアものやMade in Belgiumしか買わないバイヤーがいる一方、全くこだわりのないバイヤーも多いということなんだな」

                      「そういうことだ。うちに来るバイヤーの何人かは、インドものをインドものと意識せずに買っている。いや、ひょっとしたら、Antwerpで売ってる商品は全部Made in Belgiumと思ってる者もいるかもしれない」

                      「インドに行かなくて済んで喜んでいる者もいるだろうしな」

                      「そうそう、全くそういうことなんだよ」

                       

                      「キミのオフィスに来ていた客は“アルノンスペシャル”とも言うべき超美品を求めて来る者ばかりだった。だからキミには見えてない部分が多かった、ということだ」

                      そうか、自分は本当に世間知らずなんだと、アルノンは何とも居心地の悪さを感じていた。

                      「でもなあ、Bombayだろ、なんとも‘都落ち’の気分だなあ」

                      「まだそんなこと言ってる。もうしっかりと都落ちしてるぞ、アルノン」

                      「最後のトドメを刺しやがった」

                      「なんなら、トドメのダメ押しもしてやろうか。俺がインドって言ってるのはな、Bombayじゃなくて、Suratだよ」

                      「なんだと!?」

                       

                      198X21日、原田商事Bombay駐在員の西川はSuratに来ていた。社長に命じられた課題の回答がここにあるはずだった。SuratBombayの北約200キロに位置する人口400万人の大都市だった。インドのダイヤモンドと言えばBombayだと信じられていたが、実は、そのBombayの商品の研磨を一手に引き受けているのがSuratであったのだ。Bombayのダイヤ市場、Opera Houseの規模を縮小したようなところと言っても良かった。400万のSurat市民のうち約50万人がダイヤ関連で食っているとも言われていた。BombayからSuratまでは極わずかな時間のフライトだったが、西川は鉄道を選んだ。インドの国内便だけは絶対に乗りたくはなかった。インドの鉄道も安全とは言いがたかったが、飛行機よりもマシだろうと思った。しかし、若い西川にも列車の混雑による肉体的苦痛は耐えがたいものだった。“苦行”、“修行”とも言えそうな5時間を耐え抜き、ようやく列車はSuratに到着した。

                       

                          ―続く―

                       

                       

                       

                       

                      | ukitama | - | 16:35 | comments(0) | - | - | - |
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