Uki Dialy

「カラーダイヤモンド専門店 コズミック」店主によるカラーダイヤモンドブログ
ダイヤモンド今昔物語ーその13
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         ―前回の続き―

     

    198X21日、インド、Surat、西川は鉄道の駅舎から少し出たあたりで迎えの者が来るのを待っていた。午後1時を少し回ったところだった。Suratは、Bombayの北約200キロのところに位置するということで、日本人的な考え方からするとBombayよりも少し涼しく凌ぎ易いということになるが、実際は北緯21度、北回帰線の“内側”になり、Bombayと何ら変わりはなく厳しい暑さだった。それでも春分の1カ月半以上前ということで、日射しに角度があり、駅舎から少し出たところでも日陰の中に入っていることが出来た。列車の到着と出発が重なって、駅舎の中は凄まじいまでの混雑だった。インドに憧れ、念願叶ってBombay駐在員になったとは言え、これほどまでの人の多さと臭気は予想外だった。ほとんどのことには慣れてしまった西川であったが、疲れている時には耐えがたいことも多かった。『俺としたことが。2等車に乗ったのは大失敗だった。帰りは絶対に1等車の切符を取らないとダメだな』と強く思っていた。『しかしまあ、200キロの距離を5時間とは。新幹線なら1時間なのに。しかも1日に数本しかないんだからな』。23年前、東京にやってきたBombayのダイヤモンド業者が、社長や営業本部長と懇談の後、大阪の顧客を訪問したいと言うので、見送りに東京駅まで行ったことがあった。新幹線の切符売り場に並びながら彼は聞いてきた。

    「西川さん、大阪までの新幹線は何時の発車なの?」

    What time??」

    2時間とか3時間待たないといけないの?」

    No problem、大して待たなくても大丈夫。大阪までの新幹線が1日に何本あるかは知らないけど、So manyですよ。Every 5 minutesの出発と言えるほど」

    Every 5 minutes?!

    Yes

    Every 5 minutes!  Amazing!!

     

    大阪方面から東京に向かう新幹線が小田原を過ぎると、必ずなされるアナウンスがある、、、

    『列車はただ今、小田原駅を〇〇秒遅れで通過いたしました。次の新横浜には時刻通りの到着となります・・・』。

    〇〇の数字は常に30以内だったような気がする、15秒とか25秒とか。もし日本滞在が長くないインド人が、その車内アナウンスを英語で聞かされたなら、きっと日本人はバカなんじゃないかと思うに違いない、と思って西川は大笑いしそうになった。

     

    それにしても迎えの者が遅かった。もう30分以上も駅舎の前に立っていた。何人もの“白タク”運転手が声を掛けて来た。彼らにいちいち『No, thanks』と対応するのも面倒なことだった。Yesと言ってないにも関わらず勝手にスーツケースやバッグを運んで行って車へと“先導”する強引な奴もいたから、寸分たりとも気が抜けない。インドの白タクは多分、犯罪組織に属しているのであろう、実に巧妙な“遣り口”で外国人からゼニを巻き上げていた。西川も、2度目のBombay出張の折りに“やられて”しまっていた。今回のように迎えが来ないまま30分以上が過ぎ、イライラと不安が極限まで達しようかと思った時、白タクの誘いに乗ってしまったのであった。恐らく、“世間知らず日本人”丸出しの様子だったに違いない、彼らにしてみれば赤子の手を捻るより簡単だっただろう、、、西川に声を掛けて来たのは、若く“ナヨッ”とした人畜無害そうな男だった。『こいつなら問題なさそう』と付いて行って後部座席に乗った。スーツケースはトランクに入れられ、キッチリと鍵が掛けられたようだった。夜の10時だった。ドアを閉めようとして助手席に誰かがいることに気が付いた。何となく嫌な気がして、いったん車から出ようとしたが、素早くドアを閉められロックされてしまった。助手席の男が半身になって西川の方を見てきた。声を掛けてきたドライバーとは対極の強面(こわもて)だった。西川の方に太い腕を出してきて『ハロー』と言って握手を求めてきた。仕方なく握り返した。ねっとりとからみつくような手だった。『ちょっとヤバいかも』と思ったが、命まで取られることはないだろうと観念した。

     

    Where are you going?

    New Oberoi Hotel, please

    OK

    その後は無言で車は走り続けた。非常に荒っぽい運転で、西川は気分が悪くなってきた。2か月前に一度来ただけだったから、道が合ってるとか間違っているとかは論外で、皆目わからなかった。30分くらい経過した時、助手席の男が西川の方に顔を向けて言った。

    「俺は、通貨の両替もやってるんだよ。ドルがあったらインドの通貨と交換してやってもいいけど」

    これは要するに、『ドルを持ってたら出せよ』 ということに他ならないと悟った。手が震えそうになるのを何とかこらえ、西川は財布から10ドル紙幣を取り出し渡した。

    「悪いなあ、うちは100ドル以上じゃないと交換出来ないシステムになってるんだ」

    周囲は明らかに貧民街だった、夜も遅い時間だというのに、祭りの晩のような人だかりだった。彼らは国際空港から市街へと向かう外国人から何か“おこぼれ”を頂戴しようと待ち構えているに違いなかった。ヤクザの要求する100ドルに対して、もしNoと言えば、この右も左も分からない貧民街に放り出されるのだろうと確信した。それだったらまだ100ドル失う方がマシだった。追加の90ドルを渡すと、いくらかのインド・ルピーが返ってきた。数えたところで『足りない』なんて言える訳がない。黙ってバッグにしまった。それからまた30分ほど走ってようやく見覚えのある海岸通りに来た。200メートルほど先にホテルが見えてきた。『やれやれ』と思った時、いきなり車が側道に寄って停まった。

    「あんたももう分かっていると思うけど、俺たちゃ政府公認のタクシーじゃない。ここで支払を済ませてくれるかな」

    How much?

    「さっき交換したインド・ルピーをそのまま渡してくれたら済むよ」

    なるほど、結局100ドルのタクシー代だった訳だ。翌日、買い付けするオフィスで聞いたら通常の15倍ということだった。

     

    再び発車した白タクはそれまでの運転がウソのような穏やかな動きになり、New Oberoi Hotelの正面玄関に静かに到着した。ターバンを巻いて伝統的な兵士の衣裳を着たガードマンが車のドアを開けてくれて言った。

    Good evening, Sir

    優男の運転手が急いで出てきて、西川のスーツケースをトランクから出して言った。

    Good night, Sir

     

    『情けないSirがあったもんだ』と思ったが、100ドルで済んで良かったと心底思った西川だった。

     

    隙間が見えないほど混雑していたSurat駅付近もようやく落ち着きを取り戻してきたようだった。白タクのドライバーたちも西川に近寄って来なくなった。しかし、西川も我慢の限界に来ていた。“正規タクシー”のチケットを買いに行こうと思って駅舎の方へ歩きかけたら、何のことはない、『Mr. Ryosuke Nishikawa』と書かれたボードを持ったインド人の男が立っていた。

    「おーい、どこ見てんだよ、ホントにもう」

    Oh, Mr. Nishikawaですね、やっと会えました」

    1時間近くも待っていたんだけど」

    Sorry、出がけにね、カミさんから買い物たのまれたのを忘れていて、寄り道してたら道に迷ってしまったんですよ」

    「あのなあ、オッサン!」

     

    『そう、こういうのも含めてインドなんだ』、西川は“インドの魅力”をまたしっかりと噛みしめていたのだった。

     

     

    同時刻のベルギー、アルノンとミカエルは、Brussels国際空港の出発ロビーにいた。二人は、Frankfurtへ向かうSABENAベルギー航空機の出発準備が完了するのを待っていた。ドイツに用事があるのではなかった。二人の最終目的地はインドのSuratだった。流石に『よし、行く!』と決めた後のアルノンの行動は電光石火だった。129日の夕刻に決断し、翌30日には早朝からパスポートを持ってBrusselsのインド大使館の門前に並び、開門と同時にインド入国のビザを申請し、31日の午後にまた取りに行ったのであった。こんな時のために前もってミカエルもパスポートを取得していたのが功を奏した。最初、アルノンは一人で行くつもりだったが、少し考えてミカエルも連れて行くことにしたのだった。ミカエルを一人ダイヤモンド街に置いていくのは少し酷だと思ったし、Suratが仕入れ先として魅力的なのであれば、ミカエルを定期的に行かせるべきと判断したからだった。Suratへ行けと言ってくれたエリック・オースティンとは一昨日のお昼にまた一緒にランチに行って報告したのだった。

     

    「しかしエリック、どうして自分の会社でやらないんだ?」

    「誰が仕入れに行けるんだよ。兄貴は月の半分以上アメリカで、弟はずっとイスラエル、オヤジ一人でAntwerpのオフィスやっていけないしな。お蔭さまで毎週バイヤーが来てるし、これ以上仕事増やせないし、やる必要もない」

    「羨ましい限りだ」

    「ところでアルノン、Suratに知り合いはいなかっただろ、取引先は確保したんだろうな、キミのことだから抜かりないとは思うが」

    Surat行きを決める3日前に、どうであれ準備だけは怠りなくと思ってね、アレキシス氏の下で働いている時に原石を売ったことのあるインド人のことを思い出して、連絡してみたんだ。そしたら、そいつはSuratに研磨工場を持っていて、甥に任せていると言うんだ。でも、100%の信用はできないし、行って見ても全然ダメということもあるし、出来たら、エリック、キミのコネクションも利用させてくれるとありがたい。もともと、キミにコネがあったから俺に『行け』と言ってくれたのだと思うし。もちろん、それなりのことはさせてもらうよ」

    エリックはポケットからメモを取り出し、アルノンに手渡した。

    「うちの親父は若いときEnglandに居たんだ。そこで、この会社のオーナーの親父さんと知り合って、ふたりでかなり悪さして遊んだらしい。俺も詳しいところは知らないんだが、毎年、インドの新年になるとGreeting Cardが届いてね、『これ何だ?』ってオヤジに聞いたら、『若い頃の親友だ。Suratでダイヤの研磨工場やってる』、『お前、行きたけりゃ直ぐにでも電話してやるぞ』って。残念なことに、半年くらい前にその親父さんが亡くなったって、息子さんから電話があって、うちのオヤジはガックリ来てたよ。でも、キミが行く気あるのなら、オヤジに電話して頼んでもらうよ」

    「そのコネは強く太そうで頼り甲斐ありそうだなあ。是非是非」

    「その代り、アルノン、Suratで良い物見つけたら直ぐにウチに来るバイヤーに見せに来るんだぞ」

    「分かってるよ、そういう流れになるのは十分織り込み済みだ」

     

    ミカエルは、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。23年前まで自分が飛行機に乗れるなんて夢にも思っていなかったから、行先がインドであろうと全く気にもならなかった。目の前に駐機している多くの旅客機に対して興奮を隠すことが出来なかった。じっとしていることが不可能で、歩ける範囲内を動き回っていた。アルノンのCoolな視線を感じなくはなかったが、今日だけは許してもらおうと思った。こんなに楽しいことがあるのなら、この先どんなことがあっても我慢して行けそうな気がした。アルノンとミカエルは、BrusselsからFrankfurtに移動し、午後のルフトハンザ機で約9時間のフライトの後、インドDelhiに午前2時着、そこからまた国内線に乗り換えてSuratに向かう長い旅程だった。Delhi3時間以上の待ち時間があり、2時間ほどのフライトで、Suratには22日、午前7時過ぎになる予定だった。

     

     

    21日、午後5時過ぎ、Suratでの短い初日の仕事が終わろうとしていた。何も買わなかったが、西川は十分な手応えを感じていた。面白いアイテムが多く、ホテルにチェックインした後にしっかりと戦略を立てなければならないと感じていた。好事魔多しと言うし、また、調子に乗ってダイヤを見誤るということもよくあることだった。西川の直属の上司は、3年ほど前、Bombay1crtのブルーダイヤを買って喜んでいたが、AGTにソーティングに出したらFancy Blue Grayと判定されてしまった。実際、確かに青というよりも鉄紺、Steel Grayという感じだった。安ければどうと言うことはなかったが、2万ドルだった。1985年の“プラザ合意”前であったから、為替レートは1ドル220円を越えていた。原価は約450万円だった。売れば確実に損失が出たから、誰も売ろうとはしなかった。未だに金庫の奥に眠っているはずだった。当然それは社長の目にも触れることとなった。原田は何も言わなかった。ひとつのミスを厳しく指摘するのは簡単だったが、それによって社員が委縮することを恐れていた。エラーはファインプレーやタイムリーヒットで取り戻せば良いというのが原田の考え方だった。西川は、上司がその後、何本もタイムリーを打ったのを見てきたが、毎年必ずエラーしていた。『あの人は、野球で喩えるのではなく、ゴルフだな』という結論に達した。バーディーとボギーが交互に来て、パープレーがほとんどなく、たまにダブルボギーで、その直後にイーグルで、結局イーブンパーでホールアウト、常に注目を浴びている“お騒がせ氏”と言えた。

     

    西川にSuratの存在を教えたのは大阪のバイヤーの大和慧(やまとさとし)だった。Bombayのバイヤーと言えば34年前から、東の坂東舜二、西の大和慧と言われていた。Bombay市場に長く関係していたいと思っていた西川だったから、Bombay駐在になる直前、彼ら東西の“横綱”とも言える二人に挨拶に出向いていた。Bombayでは、坂東は常に冗談を言っているような男で、いつも周囲に誰か取り巻きの日本人バイヤーがいた。大和は反対に、口数が少なく、“ひとことで決める”タイプで、Bombayに来る日本人のバイヤーたちとはほとんど付き合いはせず、夕食は常にインド人の誰かとだった。西川は、そういう大和に直ぐに惹かれてしまった。大和がBombayに買い付けに来ることを楽しみにして、来たら必ず夕餉を共にしていた。大和も毎回、西川が毎日のように来ているスター・ブルー社で1日か2日は仕事していたから、取りたてて連絡を取る必要はなかったのだった。10日ほど前、待ちに待った大和がようやくBombayにやってきた。教えを請うた。躊躇うでも勿体ぶるでもなく、いくつかのことを語ってくれた。そんなことまで言ってくれても良いのかと言うと、

    「そんなもん、聞いてきたら誰にでも言うたるでぇ。誰もわしのところへ来よれへんからな、キミだけや」

    「大和さんはここで日本人のバイヤーとは付き合いませんからね。でも、何かそれに理由があるのですか?」

    「特にないけども、ひと口で言えば鬱陶しい、ちゅうこっちゃな。日本人バイヤーが海外で口ひらけば、『商品ない、安くない、買えない』、そんな話ばっかりや。年がら年中『ない、ない、ない』言うてる奴らと飯食っても美味いことないやろ。それだけや」

     

       ―続く―

     

     

     

    | ukitama | - | 17:37 | comments(0) | - | - | - |
    ダイヤモンド今昔物語ーその12
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           ―前回の続き―

       

      196X年、アメリカ西海岸、片山敏郎はGIAのキャンパス入口付近にいた。のちに大阪で他に先駆け宝石鑑定会社を開業することになる片山であったが、この瞬間には全くそんなことに思いも及ばなかった。ひょっとしたら、、、とも感じていなかった、いや、感じるだけの知識がなかったのだった。バイト先の常連客であるサラ・エデルマンの好意に“軽いノリ”で応えたという感じだった。一方のサラは、GIAで勉強して宝石鑑定士の資格を獲得することを真剣に考えていたのだった。GIAに関して知識がない片山を一緒に連れてきたのは、何となく一人でGIAに向かう勇気が出ず、かと言って家族や友人に“弱気”なところを見せたくはなく、少年のような風貌の片山は“片時の相棒”としてちょうど良かったからだった。ふたりは道中、GIAのことを全く話題にしなかった。サラが一方的に自分や自分の家族のことを喋り続けていた。サラは両親から十分に愛されているようだったが、その愛を少し重荷に感じている節があった。また、何か不安を抱えていて、それが彼女のお喋りの原因なんだろうと片山は推測していた。

       

      ウェストコーストの青空のような色にペイントされたシボレー・ピックアップトラックを駐車スペースに停めながらサラは言った。

      「あんたまさか本当にGIAが自動車関連の学校なんて思ってないでしょうね」

      Oh, My God、信じてました! って言うのは冗談だけど、昨日まで全く何かも考えなかった」

      「あきれた。そんな風にして日本からNY経由で西海岸まで流れて来って訳ね」

      「ハハハッ、確かにそうかも。でも、GIAのパンフレットを見るサラさんの目が異様に力入ってたから、これは『きっと良いことある』と感じたんだ」

      「それで、今はちゃんと分かってるのね」

      「レストランの店長に、『GIAって何の学校ですか?』って聞いたら、『それは多分、宝石関係だろう』って言ってたけど、合ってる?」

      「ああ良かった。でも、あのゴリラみたいな店長が知ってたなんて、GIAも有名になったものね」

       

      『入学案内』と書かれた部屋で、片山はサラの横に座ってGIA職員の話を聞いていた。サラは出来るだけ早く入学したい旨を職員に告げ、必要な書類や入学金と授業料の支払い方法等を確認していた。サラと職員の話が一段落して、サラがにっこりと微笑んだのを見て、片山は職員に問うた。

      「日本人の私でも入学は可能なのでしょうか?」

      「はい、もちろん可能です。ただし、貴方が犯罪者ではなく、また、不法に日本から逃れてきたのではない、ということを証明できなければいけません」

      「どのようにして?」

      「一番シンプルな方法は、就学ビザの取得です」

      「それは、西海岸で取れるものなのですか?」

      「いえ、一度帰国して、東京のアメリカ大使館に行かなければなりません」

       

      入学金、授業料、1年以上になるかもしれない滞在の費用、就学ビザ、etc・・・、

      クリアしなければならない障壁が多過ぎて、片山にはとても現実的なこととは感じられなかった。ところが、GIA職員の次のひと言が片山を大きく揺さぶったのであった。

      「我々は世界中にネットワークを拡げてゆきたいと考えています。外国人の受け入れ態勢を整えて、ここから巣立った外国人卒業生たちが、母国でGIA鑑定士として仕事して生活出来るような環境作りを模索し始めました。数年後には東京にGIAの息のかかった宝石鑑定会社を設立する予定です、、、、」

       

      片山は、いきなり目の前に開けた大地が拡がっていることに気付いたのであった。

       

       

      198X129日、Antwerp、ダイヤモンド街に夕闇が迫っていた。冬至から1カ月以上経っても、緯度の高いベルギーやオランダでは一向に陽ざしの変化を感じられなかった。陰鬱と思うだけの日々がこれからまだ1カ月以上続き、そのあとようやく春の兆しが見えることとなるのだった。コディアム社のオフィスの窓際に立って、アルノンはいつものように地平線のはるか遠くを見ていた。何かの慰霊碑なのであろうか、高く細い尖塔の先に燃える炎が吹き出しているのをぼんやりと眺めていた。川島とのネゴは紆余曲折を経て何とかMazalに漕ぎ着け、アルノンは30万ドル近い資金を回収することに成功した。しかし、アルノンは今後この事業を継続して行くことに大きな不安を感じていた。これから、どのようなアイテムをメインにするべきなのか、全く見えてこなかったし考えもまとまらなかった。ずっと販売の柱にしてきたロシアもののCleanishを見切ったところだったから、それに対する“喪失感”も大きかったのだった。ミカエルが言うように、メレの販売アイテムを増やすこともひとつのアイデアだったが、それだけでは生きてゆけないことが明白だった。数日前のエリック・オースティンとの会話が甦った。エリックとはミカエルを介して知り合い、まだそんなに時間は経ってなかったが、妙に気が合い、何度も一緒にランチへ行くようになっていた。

       

      「アルノン、皆が羨ましがるほど美しい商品を扱いたいという気持ちは良く分かるけど、それにこだわって“つまづいた”のが最近のお前さんだろ。幻想を捨てないと駄目だ」

      「わかった、わかった、分ったから、もう勘弁してくれ。しかし、それだけしつこく言うのだから、キミには何か良いアイデアがあるんだろうな」

      「インドに仕入れに行ったらどうだ、アルノン」

      「ちょっと待ってくれ。それこそ勘弁してください、だぞ。俺はまだ肝炎になりたくはない」

      Backpackerみたいな貧乏旅行しなけりゃ病気になんかならないよ」

      「そうは言ってもなァ、そこまでしないとダメなのかという気持ちもあるし」

      「ステファン・アレキシス氏の懐刀と言われた男のプライドが邪魔をして、素直になれない、ということだな」

      「エリック、キミも嫌なことをズバッと言うなあ」

      「アルノン・ゴルダに適切な意見できる唯一の業界人だ」

      「確かにそうかもしれない。今の俺はホント“一匹狼”だからな」

      「これまで生き残ってきたのが不思議なくらいだ」

      「今日は言いたい放題、言われっぱなしだ」

      「さっさとインドへ行ってこい」

      「キミがそこまで言うのなら、少しは考える価値があるんだろうけど、行く行かないは別にして、Antwerpでインドものの需要があるのか?」

      「何を寝ぼけたことを言ってるんだ。当たり前だろう」

      「当たり前じゃないだろ」

      「そうだな、当たり前という言い方はおかしい。既に何度も大きな商売を目にしているし、いくつも話を聞いている、ということだ」

      「マジかよ!?」

      長年、Antwerpでロシアものや、他では売ってないような質の高いメレを扱ってきたアルノンには信じ難い話だった。Antwerpに来るバイヤーたちは、ロシアものの0.2crtから0.5crtや、Makeがピシッと決まった1crt以上の“Cut & Polished in Belgium”を求めているのだどばかり思っていた。

       

      「アルノン、俺も最近やっと分かったんだけど、バイヤーってのはな、1種類じゃないんだよ」

      「何が?」

      「彼らの嗜好の話さ」

      「嗜好もなにも、バイヤーってのは売れる商品を買ってゆけば良いのだろう、違うのか?」

      「そう、その通りだ。だからAntwerpでインドものが売れるのさ」

      「なるほど。Makeや生地に凄くこだわって、ロシアものやMade in Belgiumしか買わないバイヤーがいる一方、全くこだわりのないバイヤーも多いということなんだな」

      「そういうことだ。うちに来るバイヤーの何人かは、インドものをインドものと意識せずに買っている。いや、ひょっとしたら、Antwerpで売ってる商品は全部Made in Belgiumと思ってる者もいるかもしれない」

      「インドに行かなくて済んで喜んでいる者もいるだろうしな」

      「そうそう、全くそういうことなんだよ」

       

      「キミのオフィスに来ていた客は“アルノンスペシャル”とも言うべき超美品を求めて来る者ばかりだった。だからキミには見えてない部分が多かった、ということだ」

      そうか、自分は本当に世間知らずなんだと、アルノンは何とも居心地の悪さを感じていた。

      「でもなあ、Bombayだろ、なんとも‘都落ち’の気分だなあ」

      「まだそんなこと言ってる。もうしっかりと都落ちしてるぞ、アルノン」

      「最後のトドメを刺しやがった」

      「なんなら、トドメのダメ押しもしてやろうか。俺がインドって言ってるのはな、Bombayじゃなくて、Suratだよ」

      「なんだと!?」

       

      198X21日、原田商事Bombay駐在員の西川はSuratに来ていた。社長に命じられた課題の回答がここにあるはずだった。SuratBombayの北約200キロに位置する人口400万人の大都市だった。インドのダイヤモンドと言えばBombayだと信じられていたが、実は、そのBombayの商品の研磨を一手に引き受けているのがSuratであったのだ。Bombayのダイヤ市場、Opera Houseの規模を縮小したようなところと言っても良かった。400万のSurat市民のうち約50万人がダイヤ関連で食っているとも言われていた。BombayからSuratまでは極わずかな時間のフライトだったが、西川は鉄道を選んだ。インドの国内便だけは絶対に乗りたくはなかった。インドの鉄道も安全とは言いがたかったが、飛行機よりもマシだろうと思った。しかし、若い西川にも列車の混雑による肉体的苦痛は耐えがたいものだった。“苦行”、“修行”とも言えそうな5時間を耐え抜き、ようやく列車はSuratに到着した。

       

          ―続く―

       

       

       

       

      | ukitama | - | 16:35 | comments(0) | - | - | - |
      ダイヤモンド今昔物語ーその11
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             ―前回の続き―

         

        198X年の新年早々、原田商事大阪支店の矢沢克彦は、大丸心斎橋店“中2階”にある宝石売り場奥の事務スペースに来ていた。大丸心斎橋店のレトロな建物は、明治の終わりごろアメリカ人建築家によって設計され、20年以上もの歳月を掛けて昭和初期に完成したという歴史的価値の高い物であるというだけではなく、天井、窓、壁面、床にはステンドグラスや大理石、レリーフなどが装飾された、いわゆる“アールデコ”で、芸術性にも優れた建造物と言えた。当時、初めてこれを目の当りした大阪の庶民にすれば、いきなり異国が現れたような“当惑感”とでも言おうか、この建物の中に入ることは随分と敷居の高いことであったに違いない。しかし、当時を知らない矢沢などの若い世代にとっては、入り組んだ通路や構造は“芸術的”と言うよりも、分かり難くて不便と感じるだけであった。特にこの、毎週のように出入りしている宝石売り場には大きな違和感を覚えていた。天井が異様に低く、ロッジ、コテージのロフトにいるような“中2階”の狭いスペースは、経験の浅い矢沢であってもジュエリーには相応しくないと感じるほどだった。この息が詰まりそうなほど窮屈なスペースに入って来た一般の消費者は、数人の店員に‘うやうやしく’迎えられることは確かであったけれど、いつここに来ても、そんな酔狂とも言える“お客様”の姿を見たことはなく、もし何かの間違いでこのスペースに来てしまったら随分と気づまりに違いないだろうと推測した。いずれにしても、大手デパートの建物内の『宝石サロン(宝石売り場)』で実際に買い物をしてお金を払うという消費者は極まれで、デパートの宝石部門の売り上げのほとんどは“外商”によるものであり、大手デパートの宝石売り場、宝石サロンは、『宝石も売ってますよ』という単なるポーズに他ならなかった。

         

        大丸心斎橋店は、大阪府内に存在する多くのデパートの中で一番の格式を誇っていた。年配の大阪府市民の多くは、お世話になった人や大事な顧客に対して大丸心斎橋店の包装紙で贈答することが肝要であると考えていた。そういう意味では、この冬、原田商事大阪支店が卸売先、得意先に送ったお歳暮は大いに失敗と言えた。大阪支店長の吉田は、大丸心斎橋店のすぐ北側に立地しているお隣さんの“そごう大阪店”の宝石売り場にテナントとして入っている三美宝飾と長年懇意にしていた。吉田は駆け出しの頃、新規卸売先の開拓をしていて三美宝飾を顧客に加えることに成功し、現在でも毎月1,000万円超の商品を買ってもらっていたのだった。デパートのテナントは、デパートの暖簾を借りた売上も多かったが、デパートとの付き合いには非常に神経を使うとともに掛かる経費も半端ではなかった。大丸心斎橋店の宝石部長は、あるテナントに格別の便宜を図る見返りとして、高級車を買わせたり、新築した自宅の住宅ローンの支払いを肩代わりさせている、というような黒っぽい噂が絶えなかった。そごう大阪店のテナントは幸か不幸か、そこまでするほどの利益を上げていなかったが、この冬、そごうの本部から『お歳暮3,000件』というとてつもないノルマを課せられたのであった。吉田は、三美宝飾の社長に呼び出され、『なあ、よっさん、頼むわ。この通りや』と頭を下げられ、10分の1300件を引き受けてしまった。約半分は大阪支店の通常のお付き合いの範囲で消化することが出来たが、残りの約150件は大変だった。大阪支店の従業員全員から白けた表情で見られ、支店長の吉田は自分が30件あまりを何とかするから、残りを他の12名で10件ずつ受け持って欲しいと懇願した。全員の大きな溜息が聞こえてきたが、なんとか忘年会までにclearしたのだった。それでも、大阪支店で一番若い矢沢には大変なことだった。10月に結婚式を挙げた友人がいたから、仲人さんと義理の両親へ贈ってもらって2件は直ぐに片付いた。その後が大変だった。他の友人たちは既にお歳暮の手配を済ませていたか、贈る習慣がないと言う者ばかりだった。最後の手段で、母親に土下座して頼んで5件は何とかなった。あとの3件は自腹を切るしかなかったが贈り先さえ思い浮かばなかった。まだプロポーズもしてなかったから、彼女の両親に送るのは控えた。仕方なく、ひとつは高校時代の担任の先生に送った。高校卒業後、同窓会も行かず、年賀状の遣り取りだけだったから、先生はきっと怪訝な顔をするのだろうと思った。もうひとつは自分自身に、最後の一つは千葉に住む姉夫婦に送った。届いたと思われた頃、姉から電話が掛かってきた、、『克ちゃん、どうしたん、何があったん? お金貸してあげたいけど、ウチの旦那もまだ20代やし、まとまった貯金できるほどのお給料もらってないねん・・・』、なんて要らぬ心配を掛けてしまった。実際の商売以外でホント下らぬことだった、気分の良くない年末だったと思っていたら、年が改まってもまだ続きがあったのだった。

         

        「おたくは、そごうに直接の取引口座できましたんか?」

        「えっ?」

        「いや、お歳暮おおきに。いつもの大丸やのうて、そごうの包み紙やったさかいにな」

        とかって、矢沢は、年始の挨拶で訪問した得意先の老舗宝石屋の‘ご隠居’に言われてしまったのだった。

        「わしら大正生まれのもんはな、大丸心斎橋の“しるし”もろたら嬉しおまんねや」

        と駄目を押され、なんと“ど厚かましい”と腹が立ったが、確かに同じ値段のお歳暮でも、そごうの包み紙では大丸の半額ほどにしか感じられないことも事実だった。

         

        原田商事大阪支店は、その“由緒ある”大丸心斎橋店の外商と、テナントを介さず直接の取引口座を持っていたのだった。大丸の取締役の一人が戦時中、原田と軍隊で同じ釜の飯を喰った仲ということだった。大丸側から原田商事に法外な要求がなされることもなかった。“利権”の多い大手デパートとの付き合いは、業者にとっても諸刃の剣であったから、“要求されないし、しない”という原田商事の大丸から一歩引いた姿勢は、大丸宝石サロンの者たちにとっても気楽な相手だった。矢沢は大丸に来ると、“パシリ(使い走り)”の域を出ない扱いだったが、商品を持って来て預ける、いわゆる“委託販売”ばかりであったから、特に何とも思わず、ゆったりとした気分で‘デパートの裏側’を観察していた。“表側”、売り場とは違って結構汚い言葉が飛び交っていたし、丁寧とか品があるとは間違っても言えそうにない女性社員の言葉使いが気になった。しかし、想像していたよりも活気のある“裏側”であった。

         

        「矢沢クンやったな」

        「はい」

        「これ、頼むわ」

        『宝石サロン 課長代理』という肩書を持った横井が、大きなルースケースに入った商品を矢沢に手渡した。2crtsのラウンド、FカラーのVS1だった。原田商事が大丸に委託した商品が売約になったということであった。

        「ありがとうございます」

        「いつもので」

        「承知しました。それでは10日ほど後に納品に上がります」

        「はい、よろしく」

        やりとりはこれだけだった。毎度、こんな調子だった。矢沢は指輪のサイズなど注文の内容を確かめ宝石売り場を立ち去った。2分と掛からなかった。原田商事が大丸の宝石サロンの“外商部隊”に預けているのは、0.2crtから0.5crtをシンプルな立爪枠に留めたBridal用のリング十数本と、1crt以上のルース約10個だった。委託品が売れると外商から電話が掛かってくる。リングは既に鑑定書作成が終わっているから、サイズ直しの依頼だけだった。ルースは鑑定書の作成と、ジュエリー加工だった。ジュエリー加工と言っても、1980年代においては、ほとんどがBridalリングと同様のシンプルな6本爪で、しかも馬鹿デカく、これで顔を引っかかれたら相当なキズになりそうな、凶器とも言える尖った立爪だった。矢沢は強烈に大きそうな2crtsの立爪を想像し、ブルンと身を震わせた。『いや、心配無用や。いずれにしろ、俺の結婚相手がこんな大きなダイヤ持つわけあらへん』と気が付き、安堵した。それにしても大手デパートの売り値は毎度毎度どうしてこんなに強烈なのかと感心しきりの矢沢だった。お客さんに見せた折りの値札がそのままになっていた。1,000万円近くだった。『半値で売っても500万円か・・・、凄いな』、矢沢はつぶやいた。198X年当時の2crtsのラウンド、F VS1の通常卸価格は、Makeの優れたベルギーもので約60万円/crt、ややMakeが劣るイスラエルもので約50万円/crtだったから、1個当たり約100万円から120万円だった。デパートの外商部の連中がダイヤの卸売相場なんて知っているはずがないし、デパートに委託する際には色々と手間暇掛かり、売り上げが立つまで時間も掛かるということで、原田商事から大丸への卸売価格は通常よりもかなり高いめ、多分150万円くらいだろうと推測できた。ちなみに、Good, Very Good, Excellent等のカットの総合評価が一般的になり、ラウンドブリリアントの価格がより複雑化するのはこれより数年後の事だった。1980年代、昭和天皇の最晩年近くまで、CutMakeの良し悪しは全て売買する業者によってなされていた。一般消費者は、鑑定屋のグレーディング(ソーティングや鑑定書)を見てもCutの良し悪しが良く分からない時代であった。と言うか、ジュエリー全般やダイヤモンドの歴史に比して、ダイヤモンドをグレーディングするということ自体が非常に新しい“コンセプト”であった。中央宝石研究所の創業は1970年で、AGTは翌71年だった。大阪支店が開設されたのは、両社ともに創業から数年後のことで、『つい最近』と言っても良いほどだったのだ。両社の大阪支店開設まで大阪にはダイヤをグレーディングする者がいなかったのかと言うと、そうでもなかった。OGS(Osaka Gem System)が心斎橋の大丸そごう近くに店舗を持って営業を始めたのは、AGTが東京に開業したのとほど同じ頃だった。今回、大丸が販売した2crtsは、そのOGSのグレーディングだった。OGSは、大阪の鑑定屋の草分け、一番の老舗と言っても良かった。矢沢がOGSの自動ドアの前に立ったのは、大丸を出てわずか3分後のことだった。

         

        OGSの創業者であり代表者の片山敏郎も色々とウワサの多い男だった。片山は、団塊の世代だった。同級生の数はとてつもなく多く、勉強にも運動にも特に秀でていなかった片山はいつもクラスの中で埋没したような存在だった。小学校から高校まで同じような環境で過ごし、関西の私大に進学しても自分と自分の周囲はあまり変わりがなく、『これでは一生こんな感じで終わる』と感じた途端に全てが嫌になり大学を中退した。これも同世代にはよくある話だったから我慢ならなかった。アルバイトして稼いだ金でアメリカへ渡った。これまたよくある話だったから、アメリカに行っても気分は冴えなかった。アメリカで何かを見つけねばならないと強く思った。『自分自身を見つける旅』とか言ってカッコつけている者がいたら殴りたくなった。片山は真剣に探していた。New Yorkから1カ月かけて西海岸に到達したが何も見つからなかった。旅費がなくなり、サンタモニカのモーテルのそばにあるレストランでアルバイトを始めた。片山の身体は小さくて童顔だったから間違っても敵視されることはなく、皆と直ぐに仲良くなれた。ある時、よく朝食を食べにくる若い女が、テーブルで一生懸命に何かのパンフレットを読んでいる折りに声をかけた。

        「どこかの学校に進学するのですか?」

        「そう、GIAよ」

        「それは自動車関係とか?」

        「そう、当りだわ」

        「面白そうですね、僕にも紹介してください」

        「いいわよ、数日後に連れて行ってあげる」

         

        こんな他愛ない会話が片山の“その後”を決めてしまうのだから、人生何が起こって何が幸いするか、本当に神のみぞ知る・・・

         

             ―続く―

         

         

         

         

        | ukitama | - | 16:39 | comments(0) | - | - | - |
        ダイヤモンド今昔物語ーその10
        0

            

              ―前回の続き―

           

          198X年、年明け早々のAntwerpダイヤモンド街の午後、ミカエルは、川島とアルノンの商談の成り行きを見守っていた。商談と言っても二人が直接に対峙する訳ではなく、ミカエルが電話でアルノンの指示を受け、川島に伝達し、また川島からミカエルを中継してアルノンにメッセージが届くという遣り取りだった。1980年代においては、このシステムがAntwerpなど世界のダイヤ市場で大きな役割を果たしていた。時には商品を所有する会社の社長なり責任者が直接に赴いてバイヤーと面と向かって“やり合う”ということもあったが、それは稀であった。お互い顔も名前も知らず、顔を見ないで商談するというシステム、ブローカーなどを仲介させた方が気を使わず言いたいことが言えるし、直接に言われると嫌な気分になることも誰かが間に立ってクッションになることによって、強い表現が柔らかくされるというような利点があった。

           

          7ロット、合計重量が121.54crts、合計金額約30万ドルになるBig Businessだった。このように複数のロットを同時に商談する場合、one by one1ロットごと別々に)か、combined(まとめて)か、ということは非常に重要だった。川島とアルノンの商談はcombinedでないと両者ともにメリットがなかったから、最初の段階でそれは合意済みであり、値段交渉する価格(単価、Price/crt)は一つであった。当初のアルノンの出値は$2,575、これに対して川島の指値は$2,300だった。アルノンの価格による合計金額は、$312,965.5、川島のものでは$279,542だったから、合計で実に$33,000以上の開きがあり、簡単にまとまるはずはなかった。

           

          「わしの指値、メチャメチャ売り手思いの優しい値のはずやけどなァ、そう思わんか、ミカエル君」

          「どうですかねぇ、現在の市場価格は$2,750から$2,800あたりでしょうから、うちの出値は凄く安いと思いますけども」

          「そりゃちょっと言い過ぎやろ。しかし、キミも言うなあ、18歳とは思えん。末恐ろしいわ」

          と言いながら、川島はまたタバコに火を付けた。川島のデスクの上の灰皿は既に一杯だった。日本人バイヤーのほとんどの者がタバコ片手に買い付けしているようなものだったが、中でも川島はヘビースモーカーだった。

          「キミも1本どうや。まさか、18歳やからアキマヘン、とは言わんやろ」

          川島がミカエルに向かってタバコの箱を差し出した。

          Thank you so much

          パッケージには《Mild Seven》と書かれていた。日本製なのだろう、くわえてみると、ベルギーのタバコのような“ゴロゴロ感”がなく、火を付ける以前に既に‘マイルド’な感じだった。ミカエルには喫煙の習慣はなかった。自分ではタバコを買ったことがなかったが、友人たちに勧められたら付き合って喫うことにしていた。タバコを喫っても別段、何とも思わなかった。それは一種の連帯感なのだろう、タバコの効用というのは確かにあるのだろうなとは感じていた。川島がミカエルにタバコを勧めたのは何かのサインなのかもしれないと思った。

           

          商談は、当初の出値指値から、アルノンが$2,495、川島が$2,385まで歩み寄って膠着状態が続いていた。ミカエルは、リップワース氏に商品を預けてランチに行って戻り、川島は、ブローカーたちの商品をチェックして一段落したところだった。

           

          「川島さん、You don’t have lunch?

          「ランチ食べると目や気持ちが変わってしまうのや。せやから、午前に見た商品は昼飯の前に決めとかなアカンねん」

          「それなら早くMazalしましょう、もう1時半過ぎましたよ」

          「まあそう焦るな。ネゴ(Negotiation)が早よ終わったら楽しみがなくなる」

           

           

          同時刻のBombay、スター・ブルー社の1室、インド時間の午後6時過ぎ、日本時間の午後9時半過ぎ、西川は、社長の原田からの直筆メッセージを読み返していた。ミランとランチに行っている間にスター・ブルー社に届いたFAXだった。

           

          『西川君、

           新年おめでとう。

           今年もよろしくお願いします。

           

           情況が厳しい中、お疲れ様。

           早速ですが、

          今年も、来月半ばに、海外4カ所の駐在員が一堂に会する駐在員会議をAntwerpで開催します。

          日本からは、私と松岡営業本部長、札幌、名古屋、大阪、福岡の各支店長が参加予定です。

          もし、日程その他でキミからの希望や要望があれば、1週間以内に総務部の井村君に伝えてほしい・・・・』

           

          いつもながらの淡々とした文章が綴られていた。買い付けに関して何も具体的な言及がないことに、西川は安堵の気持ちと不安な気持ちを同時に抱いた。このまま約1か月後の会議まで無為無策で過ごせるはずはなかった。何らかの成果、あるいは、現状打破の具体策を持ってAntwerpに出掛けないことにはただでは済まなかった。他の者はどうしているのだろう。西川は他の3人の駐在員の顔を思い浮かべていた。

           

          Antwerpの高瀬順は西川の同期だった。高瀬は英語がダメで、駐在員には最も遠い存在と思われていたが、原田社長は高瀬をAntwerp駐在員に抜擢した。卸売の営業をやっている時、高瀬が類稀(たぐいまれ)とも言うべき嗅覚で、次々に“売れるアイテム”を発見していたからだった。その高瀬に協力し、英語も買い付けも苦手な高瀬に代わって“売れるアイテム”を買い付けていたのが西川だった。西川も高瀬の見つけたアイテムの恩恵を受け、二人はお互いを補完する間柄で、プライベートでも非常に仲が良かった。New Yorkの遠藤武史は逆に‘英語屋’とでも言えそうな“いけ好かぬ”野郎だった。アメリカ人のように英語を操り、5番街47street界隈(この辺りにダイヤモンド取引所、ダイヤ市場がある)を大股で歩く‘NYかぶれ’だった。遠藤がNY駐在員に選抜されたのはもちろん英語力だけではなかった。このころ既に日本の宝石業界でGIA G.G.GIA宝石学修了者、宝石鑑定士)という存在が大きなものとなっていたが、GIAの鑑定書自体は日本ではまだまだマイナーな存在で、GIA付きの商品はNew York以外のところではあまり取引されていなかったのだった。特に、1crt以上のDカラーFlawlessInternally Flawlessというような物はNYでしか手に入らなかった。それらを日本市場に紹介して、徐々に日本市場に浸透させてきたのが遠藤だったのだ。

           

          Tel Aviv駐在員の泉嘉明も独自のアイテムを持っていた。ダイヤ裸石の卸売は彼の専門ではなく、専ら小売店やデパート相手にダイヤ製品の営業をやっていたのであった。泉は、芸術的には全く褒められたことはなかったが、絵心があり、時々思いついたようにジュエリーのデザイン画を描いていた。ある時、そのような一枚、変形物ダイヤをメインに使ったデザイン画が社長の目に留まり、社長や営業本部長の前で一生懸命プレゼンするうちに、『それほど自信があるのなら、自分で材料買ってこい』となったのだった。ダイヤ変形物と言えばイスラエルであった。全く想像すらしたことないTel Aviv出張となった。確かにTel Avivには、日本では考えられないほど安い価格の変形物が大量にあった。しかし、問題はそのMakeProportion)だった。いわゆる“いもMake”が圧倒的に多かった。“いも”とは文字通り薩摩芋やジャガイモのことであり、要するに形の整わない形状の美しくない変形ダイヤのことである。泉は、初めてTel Avivに到着し、生の商品を見て驚愕した。原石と変わらないのではないのかと思えるような、まさしく“Rough”と呼べそうな物や、“特厚、極厚”とも言うべきガードルの物やら、シンメトリーなんて無視しているかのような歪んだ物などのオンパレードだった。泉の初の海外の初のイスラエルの、記念すべき初日は“衝撃的な出会い”ばかりで、全く買い付けどころではなかったのだった。

           

          日本との時差が7時間、ベルギーよりも1時間早いタイムゾーンのイスラエルは午後2時半過ぎだった。Tel Avivの泉は遅い昼食を終えたところだった。泉もまた、何時間か前に受け取った原田社長からのメッセージを思い出していた。

          「あれからもう5年か」

          つぶやいた泉に、向かい合って座っていたアヴィ・ダンシガーが反応した。

          What?

          「いや、独り言だ」

          アヴィ・ダンシガーは泉の仕事のパートナーとも言うべき存在だった。泉はだいたいいつもアヴィがマネージャーを務めるシェリー・ダイヤモンドのオフィスで仕事していた。Tel Avivのダイヤ市場は、荒れた砂漠を整地した広大な敷地に建つ2棟の高層ビルから成っていた。この日のランチは、そこからほど近いイタリアンレストランだった。泉は、超高カロリーと感じるカルボナーラにウンザリとしていた。この一皿に一体どれだけの生クリームとチーズと卵黄が含まれているのだろう、とか考えるととてもじゃないがフォークを使えそうになかったから、日本の‘おせち料理’をイメージしながらの食事だった。イスラエルにしては寒く、しかしイスラエルらしい荒れた天候だった。外は横殴りの雨だった。体感気温は日本の冬と変わらない気がした。泉は、横の椅子に掛けてあったモスグリーンの革ジャンの袖に腕を通しながら店を出た。店はダイヤ市場に地下道で繋がる小規模なショッピングモールにあったから、雨に濡れることはなかった。

          Excuse me?

          声を掛けられ、振り返ると軍服の男が立っていた。ライトブルーのベレー帽を被っている。イスラエルの兵士ではないようだった。軍服には国連のマークと、どこだったかヨーロッパの国の国旗が付けられていた。中東に派遣されている国連平和維持軍所属の者に違いなかった。

          「なんでしょう?」

          「この近くにPost Officeはありませんか?」

          「えーっと、郵便局、郵便局、どこだったかな?!」

          そう言えばあまり郵便とかって使わないなと考えていたら、少し遅れてアヴィが店から出て来た。

          「アヴィ、郵便局を教えてやってくれ」

          Sure、おっとポーランドの兵隊さんか、会えて嬉しいよ、俺の両親も東欧からの移民なんだ」

          アヴィは丁寧に道を教え『Good Luck』と声を掛け、ポーランド兵とガッチリと握手して別れた。イスラエルならではの風景だった。有史以来、この界隈が平穏であったことはほとんどなく、また、1948年の建国以来、常に周囲を敵に囲まれてきたイスラエルではあったが、1990年に勃発する湾岸危機少し前の、奇跡的とも言える平和な時だった。

           

          アヴィのボス、ラン・ユーバルはイスラエル屈指のダイヤモンド研磨工場を持ち、世界各地からダイヤ原石を買ってCut & Polishしていた。内外に幅広く多くの売り先を持つ極めてアグレッシブな経営者だった。以前はDTC(De Beers)のサイトホールダーでもあったが、DTCの締め付けに反発し、サイトホールダーを返上して、より自由な原石の取引を楽しんでいた。ユーバルはいくつもの会社を経営していて、シェリーダイヤモンドはその中の極めて小さな存在のようだった。泉がユーバルと会うことは滅多になく、ユーバルは月に1度くらいフラリとやってきて、泉に自らの武勇伝を語った。信じ難いような古い話もあったが、ユーバルなら確かにやったに違いないと思われたのは、イスラム革命前のイランに大量のダイヤを売り込んだ話だった。イランのパーレビ王朝はイスラエルダイヤモンド産業の一番の顧客だった。『そりゃもの凄かった、今のアラブの富豪なんて当時のパーレビ国王に比べたら“ガキの使い”のようなもんさ』、なんて言っていた。“ガキ使”とは、ちょっと言い過ぎではと言おうとしたが、黙って聞いていた。『テヘランに行く度に、バケツ1杯分くらいの量の高品質の大粒ダイヤを買ってもらっていたよ』、なんて聞かされたら、『す、すごいですね』としか言えなかった。極め付けの話は、ホメイニがイランに帰国してきて“いよいよ”という折り、パーレビ王朝の断末魔でのユーバル氏のテヘラン脱出劇だった。

           

          『パーレビ王朝に繋がる富裕層はイランから脱出しなければ革命政権に罰せられるに違いなかった。だから彼らは先を争って手持ちのお金を大粒ダイヤと交換してイランから出て行った。大量の札束抱えて亡命出来ないからな。お蔭で、俺の乗るはずの飛行機の席が彼らに横取りされてね、テヘランの空港で丸一日近く待たされた。もうダメだ、ラクダに乗って帰るしかないのかと諦めかけた時、ようやく席が取れた。空港が閉鎖される直前の“最後の国際便”だった。イランを脱出できればどこでも良かったが、なんと、行先はケニアのナイロビだったよ。Tel Avivに戻れたのはそれから5日後だった』

           

          そういうユーバル氏であったから、買えなくて悩んでいる時にはドンと背中を叩かれた。『泉さん、勇気を持ちなさい。そして自分自身を鼓舞するのだ。俺は出来る、俺は出来ると心の中で何度も言いなさい。そうしたら全てうまく行く』と、何度も言われた。『あんたみたいに成功できるのは100万人に一人だ!』と大きな声で叫びたかったが、こんなオヤジには何を言ってもまたドヤされ説教されるに違いなかったから、泉はひたすらSmileを浮かべるだけだった。

           

          「もう5年か」

          泉は先ほどの独り言をまた繰り返した。初めてイスラエルに来てから5年近くが経過していたのだった。当初は“箸にも棒にもかからない”と思われたTel Avivの変形物ダイヤだったが、テリの良い良質の原石から研磨されたダイヤが多いことに気が付いたのだった。とにかく歩留り重視のCut & Polishが、イスラエルのダイヤ産業の特徴であり、最大の欠点だった。優れた研磨職人も不足しているに違いなかった。泉の初回の買い付けは満足ゆくものとは言えなかったが、企画通りの製品にして何とか社長から合格点を貰えるほどの売り上げが出来、ある程度の手応えを感じた。初回は、ダイヤの場面が小さいことに目をつぶって、とにかく価格の安さを全面に押し出したのが成功した。しかし、それが何度も通用するとは思えなかった。消費者が飽きるより先に卸売先の仕入れ担当者から『もうやりたくない』と言われる方が早いだろうと推測した。『凄く安いけど、凄く場面が小さい』というのではなく、『普通に綺麗で安い』ジュエリーを売りたいと思った。前任のTel Aviv駐在員であった山本兜太に相談した。

           

          山本は泉に二つの提案をした。一つは、Tel Avivで買ったMakeの良くないダイヤをAntwerpに送って上手な職人にRecutRemakeさせること。もう一つは、Tel Avivの中で、原石を扱って研磨している業者に相談して泉の満足できるProportionの物をCut & Polishしてもらうことだった。しかし、“泉基準”とも言える新しいProductionを研磨してくれる業者はなかなか見つからず、とりあえずはAntwerpRecutした方が手っ取り早かった。Antwerpの研磨職人も数量が増えてくると嫌がり、『それでも』と、お願いすると工賃が高くなった。それではAntwerpで普通に変形物を買い付けるのと変わらなくなった。泉は諦めず、山本に必死で頭を下げて、引き受けてくれる業者を探してもらった。山本が出会ったのがアヴィであり、アヴィのボスのユーバルだった。

           

            ―続く―

           

           

           

           

          | ukitama | - | 16:43 | comments(0) | - | - | - |
          ご挨拶、2020年
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                 新春のお慶びを申し上げます。

             

              

             

              旧年中はお世話になりました。

              本年もどうかよろしくお願いいたします。

             

             

            皆様、

            新しい年の始め、如何お過ごしでしょうか。

            まだ旅行の最中という人もいるでしょうし、

            実家、自宅でのんびりと過ごしている人も多いでしょうね。

            あるいは今日から早くも仕事?!

            いえ、年末年始はずっと出勤、お休みは6日からという働き者の方もいらっしゃるに違いないですね。

            いずれの御方も、2020年も変わることなく、当店をご愛顧いただきますようお願いします。

            私も微力ではございますが、皆さんのご要望にお応えできますよう一生懸命に努める覚悟でおります。

            当店の商品、どうか期待を持ってご覧くださいませ。

             

                             UKI

             

            | ukitama | - | 07:37 | comments(0) | - | - | - |
            ダイヤモンド今昔物語ーその9
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                  ―前回の続き―

               

              Antwerp、ディアマンタル社の1室、川島はまず、一番単価の高いロットのダイヤ全部を、慎重にパッドの上に出して、11個の重量を量り始めた。ロットは、0.5crt以上0.7crt未満、いわゆる『ロシアものAクラス』と言われるMakeCut & Proportion)、DEFカラー、VVSVSであった。もし0.5crt未満の物がロットの中に入っていれば、それはCondition(取引条件)として“問答無用”で外されることになる。ミカエルは、重量を量ることは『初歩以前のこと』と、アルノンから厳しく言われていたから、問題があるはずはなかった。時おり、スケール(秤)の上で、0.499crt0.500crtの間を行き来する物があったが、そのような時にはダイヤモンド街の“Official”(公式ジャッジ)に出掛けて、計測してもらって証明書を発行してもらい、ロットに添付していた。

               

              次に川島はピンセットとルーペでMakeを見始めたようだった。1個当たり数秒も掛かっていなかった。ミカエルは、川島の軽やかとも“しなやか”とも言えそうな‘ピンセットさばき’に感動していた。素早い動きで、かつ、ダイヤモンドを掴み損ねるということが全くなかった。ピンセットの光沢がミカエルの物と違っているように感じて、何か特殊な材質の物なのか聞くと、

              「チタンや、チタン。軽いし、メチャ扱いやすいでぇ」

              という答えが返ってきた。

              「どこで売ってるのですか?」

              「なんやキミ、そんなことも知らんかったんか、そこやがな、そこ」

              と、ダイヤモンド街の端っこの方を指差した。

              1本、25ドルもするねん、その価値は十分あるけどな」

               

              Makeの検分をアッと言う間に終え、川島はカラーカードを取り出した。カラーカードは、色の付いた紙という意味ではなくて、無色透明のダイヤのカラーを見るための少し厚めの真白な紙である。長さ十数センチ、幅数センチの物を半分に折って、折ったところにダイヤを裏返して置き、デイライトの下でダイヤのパビリオンサイドの色を見るのであった。DEFカラーであるから、素人が見ても色があるとは思えない物ばかりであり、それを“仕分ける”のはバイヤーと言えども神経を使った。

               

              川島はAntwerp買い付け30回以上の“歴戦の勇士”であったが、上司から言われた‘買い付けの基本’を忠実に守っていた。即ち、高品質の物がパックされたロットをチェックする手順は、まず重量を量り、次にMakeをチェックし、そして、Color、最後にClarityということであった。簡単で時間の掛からない事からやってゆく。Rejection(外さなければいけない物)が多くて、結果『買わない』ということになれば、作業は無駄になる。無駄な時間を少しでも減らそうということなのだ。

               

              「有能なアソーターのミカエル君、キミと僕との目合わせをしょうか」

              と言って、川島は一枚の紙に次のように書いてミカエルに渡した。

               

              D VVS

              D VS1

              D VS2

              E VVS

              E VS1

              E VS2

              F VVS

              F VS1

              F VS2

               

              「キミがアソートしたロットやろ。それぞれ何個ずつか覚えてたら、書いてくれ。俺が見えんようにな。書いたら裏返して横に置いてくれ」

              「承知しました」

               

              ロットの内容は全て頭に入っていた。厳しいアルノンに鍛えられ、また、何度もやり直して自信があったのだった。1分も掛からず、ミカエルは数字を書き終え、裏返して川島のそばに置いた。

               

              川島は、ロットの34個を、DEFに分け終わったようだった。マスターストーン(カラーサンプル)と11個比べながらカラーを判断しているバイヤーが多かったが、川島は23度マスターストーンを使っただけだった。『やはりこの人はトッププロだ』とミカエルは思った。白いパッドの上に、大中小、3つのグループがあった。川島は、“仕分け”の最後の段階、Clarityに取り掛かった。10倍ルーペでVVS1VVS2を判断することは無理があった。見えるか見えないかも分からないようなピンポイント(針の先で突いたようなインクルージョン)を探して、それが3つ以内なのか、それとも4つ以上あるのかをルーペで探すのは時間が掛かり過ぎ、また不正確だから、そんなことはナンセンスだった。鑑定屋のグレーダーは皆、顕微鏡でインクルージョンを見つけ、それをルーペで確認するという作業をしているのである。バイヤーのやり方は、VSになってしまうインクルージョンがないからVVSになるという判断であり、単にVVSと判断した物がVVS1になれば、それは“余禄”という考えだった。だから、VVSと判断した物が全てVVS2でも構わないというような買値の設定をしなければいけなかった。

               

              トッププロの川島でも、VVSVSを判断することには少し時間を要するようだった。ミカエルは、これに関しては、ひょっとしたら若い自分の方が少しばかり早いかもしれないと思って内心‘ほくそ笑んだ’。ほどなく川島が作業を終えて、紙にアソートの結果を書き記した。ミカエルの書いた紙と並べた。

               

                      川島    ミカエル

              D VVS            5                   6

              D VS1            7                   7

              D VS2            3                   3

              E VVS            6                   5

              E VS1            4                   5

              E VS2            2                   2

              F VVS            3                   2

              F VS1            2                   2

              F VS2            2                   2

               

              ほぼ同じと言っても良かった。ミカエルは安堵し、川島はニヤリと笑って言った。

              「ほう、やな。キミは大したもんや。キミのボスは相当に厳しい人なんやろな」

              「ありがとうございます。厳しいボスのお蔭だろうと思います」

              「これはもう、あとのロットは俺がアソートする必要はない訳や。キミのデータをほぼ信用できる」

              I’m very happy.

              「いや、もうOne Lotやってみよか。偶然ちゅうことも有りうるからな」

               

              川島は、単価の高い順に並べられたラインナップのちょうど真ん中のロットを選択し、また重量を量り始め、ミカエルに、同じようにロットの内容を紙に書いて伏せて置くように言った。約30分後、川島のアソートが終わり、また2枚の紙を突き合わせた。今度もほぼ同じだった。

              I’m happy, too.、ミカエル君。時間が相当に節約できる。残りの5ロットは石目(重量)量って、Makeをチェックして終わりやな。その5ロットのアソート結果を書いといてくれ」

               

              厳しい道のりと思ったのが好転し、ミカエルは小躍りしたくなった。この調子でゆけば必ず良い結果になると確信した。

               

              同時刻のインド・Bombay、西川は、Hotel Oberoiからミラン・サダックの運転する車でダイヤモンド業者がひしめくOpera Houseへと戻ってゆく途中だった。Opera Houseという地名は、そこにオペラ座がある訳ではなく、その界隈に大小たくさんの映画館があり、“映画館街”という意味らしかった。ミランがマネージャーを務めるスター・ブルー社の正確な住所を日本風に書くと、

              『ボンベイ市 オペラハウス町 ロキシー・シネマ通り 1117番地』

              となる。あまり知られていないが、インドの映画産業は世界一の規模だった。制作される映画の数は半端ではなく、街のどこそこで常に映画のロケが行われているのを西川は見ていた。巨大な人口が映画産業を支えているのだった。10億を超える人口のスケールはとてつもなく、1年やそこらインドに滞在したところで、まだほとんどインドのことを分かっていないのも同然と感じていた。

               

              しかしそんなことよりも、ダイヤの買い付けだった。社長の原田の指令は絶対だった。一代で年商100億にも届こうかという企業を造り上げた原田は、日本のダイヤモンド業界のカリスマ的存在だった。sharpな頭脳は業界内に並ぶ者がいないと誰もが思っていたし、視線も恐ろしいほど鋭かった。社内で原田に報告を行う時、その視線で見られると、ウソや適当な誤魔化しは必ずバレるという気がしていた。けれど、原田は決して厳しいだけの男ではなかった。西川は、Bombayに赴任する直前に、原田と直属の上司に激励会をやってもらった。食事の後、ホテルのバーで呑んだ時の会話を思い出していた。

               

              「西川君はまだ独身だし、インドで事故に遭っても路頭に迷う妻子がいないから、俺も気楽だ。何が起こっても、ご両親の老後の心配のないように会社から慰労金を出すから、安心して行ってきなさい」

              「社長、ちょっと待ってください、縁起でもないこと言わないでくださいよ」

              「いやいや、俺たち戦前戦中の人間は、誰かが遠くに出掛ける時、こんな話をいっぱいして厄落とししてたんだよ」

              「ホントですかー、何か悪趣味だなぁ」

              「俺も学徒出陣する時には同級生から散散こんな話ばかりされてね、それでもと言うか、そのお蔭と言うか、とにかく南方戦線から負傷もせずに復員したんだから」

              「そうだったんですか、だったらもっと言ってください、厄落とし」

              「ああ、言ってやる、言ってやる、、行きのフライトはCathay航空のBangkok経由だったな、Cathay機がタイのジャングルに落ちたら、俺が原住民に探すようお願いしてやるよ」

              「そんな知り合いいるんですか?」

              「いるよ、戦時中からの長い付き合いだ」

              「まさかー」

               

              どこまで本当なのか西川には訳の分からない話だったが、とにかく社長との会話は楽しかったし、勉強になった。もっと色々と聞きたかったが時間があまりにも短かった。23年前に古参の役員と一緒に昼食を食べた時に社長のことを聞くと、『法律の知識も凄い、弁護士並みだ。東大法学部出てるんじゃないの』と言っていたし、先輩社員のひとりは、『社長は極まれにだけど、関西アクセントの言葉になるんだよね。あの眼光だし、関西の某組の組長の息子だった、なんて言う者もいる』、とか、とんでもないことを言っていた。そんな話を聞かなくても、原田を見ていたら、相当に修羅場を経験して生き残ってきたという気がした。原田から多くは聞けなかったが、宝石の売買を始める前に、時計を大量に取り扱って宝石を買う資金を作ったという話もあった・・・・・

               

              昭和2X年、神戸元町商店街、原田は池谷時計店の中にいた。池谷が接客中の時に来てしまったから、『1時間ほどしてからまた来る』と言ったのだが、池谷は原田の手を握って離さず、仕方なく店に入ってしまったのだった。池谷時計店には所狭しとばかりに様々な時計が並べられていた。柱時計、掛け時計、目覚まし時計、antiqueな懐中時計、そしてもちろん腕時計。ちょうど来店していた客は、原田と池谷の“感動的再会の場”に遭遇したのだが、昭和20年代には、そんな風景はありふれたものであり、客もただ微笑みを浮かべて二人を眺めていた。原田は客に軽く会釈して店の奥の応接室に入った。池谷の明るい声と客の笑い声が重なっていた。良い商売ができるのだろうと原田は思っていた。池谷に促されて応接室に入る前、恐らくは客が選んだであろう腕時計がショーケースの上に置かれていた。値札がチラリと見えた。かなりの高額品だった。客が値段交渉する数字が聞こえてきた。値札の半額以下だった。池谷の悲鳴のような声が聞こえ、慌てる様子が目に見えるようだった。何度も値段を言い合って、値札の約4割引きで売買が成立したようだった。10分ほどの世間話の後、客は帰って行った。

               

              「すいません、お待たせして」

              池谷は、応接室の横にある小さな事務室で帳簿をチェックしていた番頭さん風の年配の男に声を掛け、店番を頼んで原田の前にやってきた。

              「いや、こっちこそ、申し訳ない。突然来たりして」

              「何をおっしゃいます。本当に嬉しいですよ、お会いできて。今日はゆっくりとしていってください。うちに泊まってくださるともっと嬉しいです」

              「いや、実はな、、、」

              と、原田は神戸に来るまでのことを話し出した。大阪から去ったこと、新しい自分になりたくて原田健太郎という名前になったこと、東京都民になったこと、東京で商売を始めようとしていること等を池谷に話し始めた。そして、将来的に何を売買するかは言わなかったが、その元手を稼ぐために、東京で時計を売りたいということと、その商材を池谷から買いたいということを熱心に語った。

               

              「原田中尉と言うのも変ですしね、そんな人いませんでしたから。何か妙な感じがするけど、原田さんとお呼びさせていただきます」

              「そう、新しい俺や。原田でお願いするわ」

              「原田さん、命の恩人に対して売りつけるなんて出来ません、どうか好きなだけ東京に持って行って、売れた分だけお支払ください。お支払いは、値札の価格の7割引き、3掛けの金額で十分です」

              「アカンて、そんな値段。そんなことしたら、俺はまるで“たかり”に来たみたいやないか。4割引き、6掛けで売ってくれたらええねん。お願いします」

              原田は一所懸命頭を下げた。

               

              「頭下げんといてください、頼みます」

              「いや、これが新しい俺や。新しい商売のためにはなんぼでも頭下げるでぇ」

              「もう勘弁してください」

              「とりあえず、商材はお借りできるのならホンマありがたい。その代わりに、支払いは6掛けで」

              「さっきの商談を聞いてはったんですね。そう、確かにあのような価格で商売させてもろてます。せやけど、そんなんでは原田さんが利益取れんでしょう」

              「池谷、それがな、東京は何もかもが不足やねん。人口が爆発的に増えとる感じがするしな。これからしばらくは増々不足や。特に時計は飛ぶように売れとる。値札の値段でも値切らんと買うてくれると思う。あと数か月、いや、23か月が限度やろうが。この間に運べるだけ運んで儲けたおしたろ思うねん」

              「しかしそれでは私が御恩返しできません。せめて半値で」

              「もう、しゃあないなあ。55掛けにしてください」

               

              池谷は、店の事務室に入って行って、数分して戻ってきた。木と布で作られたケースに入った腕時計が目の前に並べられた。ちょうど100個あった。値札の価格を原田が読み上げ、池谷が算盤を弾いた。2度目は原田が算盤で計算した。同じ金額になり、その金額を池谷は『仮納品書』に書き込み、“仕切り価格55%”を明記し、原田がサインした。

              「こんな簡単なもんでええの?」

              「十分過ぎるくらいです」

              「確かにお預かりしました。1週間以内に必ず戻って来る」

               

              原田は、池谷がゆっくりとしていってくれと頼むのを振り切り、神戸を発って東京にとんぼ返りした。6日後、トランクに多額の現金を入れた原田が池谷のところに帰ってきた。約束通り、池谷に仮納品書の金額の55%のお金を支払った。

               

              「池谷、頼みがある」

              「たいがいのことは聞きまっせ」

              「舶来もん、あらへんか?」

              「と言いますと?」

              「オメガとかロレックスとか」

              「そんなもんでええのですか、10本くらいずつ持って行かはりますか?」

              「いや、本数は要らんねんけどな、商売した時計屋のオッサンが生意気に、オメガのクロノグラフと、ロレックスの防水時計を欲しいと言うとんねん。お任せください、と言うたものの、ほとんどハッタリや、言うてることがサッパリ分からん、ドキドキしながらここまで帰ってきた」

              「全く心配する事おまへん。池谷時計店に不可能の文字は似合いまへんのや」

               

              池谷は、原田の要求通りの物を揃え、また、国産の腕時計を前回と同様に用意して原田を送り出した。5日後、原田は戻って来て、初回よりもかなり厚い札束を池谷に手渡した。その後、2度、原田は東京と神戸を往復し、時計の商売と縁を切った。並みの宝石店を営むくらいの元手が原田の懐に残った。

               

                  ―続く―

               

               

               

               

               

              | ukitama | - | 17:25 | comments(0) | - | - | - |
              ダイヤモンド今昔物語ーその8
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                    ―前回の続き―

                 

                ミカエルが川島の前に商品を並べた頃、Antwerpから遠く離れたインド・Bombayは、ちょうどランチの時間だった。東京の大手ダイヤモンド輸入商、原田商事の現地駐在員バイヤーの西川亮輔は、取引先のマネージャーであるミラン・サダックとHotel Oberoiのレストランに来ていた。西川にとって、Bombayで迎える2度目の新年であった。原田商事は、世界の4大ダイヤモンドマーケット全てに社員を常駐させるとともに、絶えず社員を出張させ、1年中途切れることなく“鮮度の高い”ダイヤモンドの輸入に努めていた。AntwerpTel AvivNew YorkBombay、これら4つの都市に住んで、バイヤーを務めるということは、原田の社員にとって一番の誇りでありステイタスシンボルとも言えた。中でも、当然のことながら、AntwerpNew Yorkに駐在を希望する社員は多く、そこには、能力が高く、海外での経験が豊富な社員が抜擢されることが多かった。Tel Avivももちろん重要な市場であったが、中東の危険なエリアということもあり、赴任に消極的な者がほとんどで、Tel Avivに駐在しようと手を挙げる者は相当な野心家とも言えた。Bombayはその点、少し事情が違っていた。インドは、ある者たちにとって、魅せられた究極の地であった。インドに長く滞在したいがため、原田商事に入社しようと面接を受けに来る者も少なくなかった。西川も元々そんなような連中の一人だった。

                 

                「西川さん、あなたはもうインド人とほとんど変わらないね」

                ミランは、西川がフォークもナイフもスプーンも使わず、インド人のように右手だけで食事していることを言った。

                When in India, do as the Indians do.When in Rome, do as the Romans do.郷に入らば郷に従え)ですよ。」

                 

                西川は、毎月12度、ミラン・サダックとOberoiでランチして、友好関係を深めるとともに、会社からの意向を伝えていた。西川は1カ月の食事が全てインド料理であっても問題なく、この日もベジタリアンのミランに合わせて同様のメニューを選んでいた。原田商事のインド好きの歴代駐在員のお蔭で、ミランがマネージャーを務めるスター・ブルー社と原田との関係は極めて良好だった。如何にして相手の懐(ふところ)深く入り込めるか。ゼニや価格だけではないものの重要性を一番強く感じられるのが同じアジアのBombay市場だと、西川は考えていた。インド人は肌の色も顔だちも日本人とは全く違っているが、中国人や韓国人よりも日本的な感情を持っていることを感じ取っていたのであった。

                 

                「ところで、ミランさん、今年のProduction(原石から裸石への生産)の量はどんなものでしょうか?」

                DTCDe Beers)の今年のサイト(原石の配給)は、ロシアものの問題もあって、Cleanishが大きな減少で、代わりに1crt以上の低級品が増える模様です。メレの供給量も10%前後増えると見ています」

                「それは良いことを聞きました。1crt以上の物もメレも、現状の分プラス増産分そのまま全部を弊社へ売っていただく訳にはいきませんかねぇ」

                「うーん、どうでしょう。現段階では、何ともお答え出来かねます」

                 

                ミラン・サダックは、スター・ブルー社のオーナーの一族ではなかったが、ミランの父親が業界での豊富な経験を買われて社外取締役となり、オーナーの良き相談相手となっていたということで、ミランがスター・ブルー社に入社したのだった。それだけではなく、ミランは英国留学の後、アメリカに渡り、GIA1年間勉強したBombayダイヤモンド街の“エリート”とも言われる存在であり、30歳手前の若さながら、スター・ブルー社の営業、バイヤーへの販売を一手に取り仕切る“実力者マネージャー氏”であった。ミランのような若手の実力者はインドのダイヤモンド業界では珍しくはなかった。インド人の早熟度合いには驚かされるが、彼らは一様に短命であり、60歳を過ぎて若い頃と同様に毎日出勤して働いている者はダイヤ業界の経営者クラスには存在しないと言っても過言ではなかったから、逆に言えば、早熟である必要性があるのだった。

                 

                西川は、自分とほとんど年齢の変わらないミランに常に圧倒されていることを感じていた。育った土壌が違うから特別なライバル意識は持たないつもりではいても、やはり同年代として、ある程度の悔しさもある。東京の本社から厳命されている事案、買い付け額の20%アップを目指して、なんとしてもミランから良い回答を貰わねばならないと思っていた。

                 

                「ミランさん、御社の10分の1サイズ(平均0.1crt)の$400Price/crt)あたりの商品は非常に使い勝手が良いのです。これは毎月頂いている分の倍の量があっても楽に販売できると東京の営業が言って来ています。とりあえず、そのあたりからご協力いただけませんか」

                「ストレートの品質の物で、いきなり倍は無理でしょう、いえ、1.3倍でさえ難しい。原田商事さん以外にも同じような注文が来てますからね」

                「ならば、$425まで出しましょう、これで何とか現状の1.5倍以上の供給をお願いします」

                「困りましたね。まだ今年のProductionの片鱗も見えてないのに。」

                 

                ミランの知的レベルは相当に高く、また、性格的にも変な駆け引きをするタイプでもなかったから、西川はこのあたりが今日の退き時と考えた。

                「それにしてもミランさん、ダイヤって面白いよねぇ。他の製品なら、数量を増やせば単価が下がるのに、ダイヤモンドは逆だ。こんなのダイヤだけだよね」

                 

                「しかし、西川さん、御社のボスはまた一段と買い付けと販売のギアを上げさせているような気がしますが、何か具体的な目的があるのですか?」

                「流石にミランさん、鋭い洞察力ですね。実は原田商事が来年に創業30周年を迎えるのですけども、それとともに、東証2部上場を目指してましてね、そのためには年間の売上100億円以上が必要ですし、2年間の合計利益額が5億円を超えないといけません。これらの数字は達成可能なところまで来てはいるのですが、未だにClearしたことがなくてね、それで社長は激しく我々の尻を叩く訳なんですよ」

                 

                創業30年を1年ちょっと先に迎えようとしていた原田商事は、業界ではかなり異色の存在だった。創業者の原田健太郎は、京大法学部卒の‘インテリヤクザ’だった。終戦の翌年3月、大学から放り出されるように卒業したが、敗戦後の動乱期には学歴は全く役に立たず、大阪の闇市で荒っぽいことをやって喰っていた。切れ切れの頭脳と度胸の良さで、いつの間にやらチンピラどもから『親分』と呼ばれるようになり、十数人の手下が出来てしまった。戦前から続く博徒系の“老舗ヤクザ”とは上手に棲み分け、時には“上納”して抗争にならないように気を付けた。たまに、愚連隊のような連中に命を狙われたりしたが、原田は京大剣道部の猛者であり、学徒出陣して砲弾をかいくぐり九死に一生を得ていたから、怖いものは何もなかった。襲ってくる暗殺者の一人や二人は簡単に退治していた。しかし、そのような生き方をずっとして行けるとは考えていなかった。平和な世の中となれば、自分たち新興勢力は老舗ヤクザから叩きのめされて存在できなくなるのは見えていた。

                 

                終戦後の動乱が混乱となり、混乱が収束に向かい始めた折り、原田はきっぱりとヤクザから足を洗った。原田の下で組織をまとめていた者をトップに据え、原田は大阪から消えた。蓄えた金で東京に行き、金に困っている者から戸籍と名前を買った。原田健太郎は新しい自分だった。小さいながらも都心に住居を持った。これからは宝石の時代が来ると読んでいた。ダイヤモンドが有望だろうと確信し、宝石を生業にすることを決めた。関西イントネーションの言葉も封印して、関東人になりきろうとした。動乱を経て、混乱が続く東京には、平和が来ることが見えていたから、たくさんの人が東京に流入してきた。原田がどこの出身なのか誰も気にはしなかった。時おり、『どこのお生まれですか?』と聞かれることはあったが、その都度どこか適当な県名を言って、話をはぐらかした。

                 

                上京して直ぐに東京都民となった原田だったが、直ぐに宝石を取り扱いし始めた訳ではなかった。生活に困らないほどのお金を持ってはいたが、宝石の仕入れには足りなかった。東京は活気にあふれていた。そして、全ての物資が不足していた。何を持ちこんでも売れそうだった。原田は、とりあえず何が手っ取り早くお金になるのか見極めた。そして、終戦直後、外地から同時に復員した者のことを思い出していた。池谷正造という神戸の時計屋の倅だった。敗戦時、原田は陸軍中尉で、池谷は上等兵だった。昭和209月、ふたりが神戸港に帰りついて別れ際、池谷は言った。

                『中尉殿、中尉殿は私の命の恩人です。私は神戸の“しがない”時計屋の跡取りですが、出征する直前、家内の岡山の実家の土蔵にたくさんの腕時計を隠してきました。命を救ってもらった御礼にそのいくつかを差し上げたく思います。1カ月ほど経った頃に中尉殿のご自宅にお伺いいたします。ご住所をお教えください』

                原田は、男として当たり前のことをしたまで、お礼なんて全く気にしなくても良いと言って住所を教えなかった。

                 

                原田の実家は大阪府の北部、京都府との境の島本町だった。母親が兄夫婦と住んでいるはずだった。神戸港から直ぐに母には会いに行くつもりだったが、兄夫婦とは折り合いが悪く、一緒に住むつもりがなかったから、教えられる住所はなかったのであった。池谷は、『それでは、ご都合の良い折りに是非とも神戸のお店にお越しください』と言っていたのだった。それからもう数年が経過していた。時計が不要だった訳ではないが、恩着せがましく貰いに行くというのは性格的に合わなかった。神戸に行って池谷に会って、通常通りのお金を払って時計を買おうと思ったのだった。

                 

                東京から夜行列車に乗って翌日午前に大阪に着いた。梅田駅から阪急電車に乗り、三宮で下車した。元町商店街に店があると言っていたから、注意深く歩いてゆけば見つかると思っていた。もし見つからなければ、何軒か質屋巡りをして時計を買い集めれば良いと思っていた。商店街に入って2分も歩かないうちに『池谷時計店』という大きな看板が見えてきた。“しがない”なんて、とんでもなかった、神戸元町の一番店かもしれなかった。店の前まで来て、原田は少し立ち止まり、中の様子を見た。ガラスが入った引き戸の向こうに懐かしい池谷の姿が見えた。接客中のようだった。視線を感じたのか、池谷が顔を上げた。原田と目が合った。一瞬ののち、池谷が目を見開き、駆け出して引き戸を開けて外に飛び出て来た。原田の右手を両手で握って涙を流し始めた。

                 

                「中尉殿、やっと来てくれましたね」

                「おい、もう中尉ちゃうでぇ。恥ずかしいから、手握るのやめてくれ」

                 

                敗戦間近の頃、原田と池谷はタイとビルマの国境付近にいた。原田が指揮する偵察部隊が米軍の攻撃に遭って、池谷が足を負傷したのだった。ジャングルの中で米兵から逃れ、他の兵士を本隊へと先に帰し、原田は池谷を背負ってジャングルを彷徨い歩いた。池谷は、何度も自分を置いて先に行ってくれと言ったが、原田は『アホなことを言うな』と励ました。二人には食糧もなく、もう歩けそうにないと思っていた時、原住民が前に現れた。殺されると覚悟したところ、目の前に数個のトマトを置いて立ち去っていった。二人はそれを食べて生き返った。その後、何度も方向を確認し、米兵をやり過ごし、三日間歩いて本隊に合流したのであった。

                 

                    ―続く―

                 

                 

                 

                 

                | ukitama | - | 18:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                ダイヤモンド今昔物語ーその7
                0

                   

                        ―前回の続き―

                   

                  《Antwerp 中央駅(正面奥)と駅前通り、198X年》

                   

                  198X年、年明け早々のAntwerpダイヤモンド街、空気は冷たく、吐く息がやたら白く感じた。大阪から来たバイヤーの川島賢次は長旅に疲れていた。新年の挨拶回りもそこそこに、重いスーツケースを転がして会社を出発したのは24時間以上前だった。伊丹空港までバスに乗り、BA(British Airways)のチェックインカウンターで荷物を預け、搭乗券を受け取ってホッと一息ついたのはもう数日も前のことのように感じていた。それから、成田まで飛んで1時間待ち、そののち北太平洋を跳び越え、アラスカのアンカレッジで飛行機から出てトランジットのエリアで背筋を伸ばし、また乗りこんで今度は北極圏を飛び、Londonに到着したのは翌早朝だった。そこからまだ、ベルギーへの最後のフライトが待っていた。ヒースロー空港で3時間を過ごした後、ようやくAntwerpに辿り着き、ホテルにチェックインしたのはお昼前だった。部屋に入ることは出来たが、部屋の掃除は未だ済んでおらず、直前の滞在者が使ったタオルが置きっぱなしになっていた。これではシャワーを浴びてサッパリすることもままならない。スーツに着替え、気持ちがどんよりとなりながら、買い付け現場、“戦いの場”となるディアマンタル社に来てようやく我に返ったようにハッとなった。社長のリップワース氏と握手して少し“戦闘モード”に入った気がした。いつもの部屋に行くと、既にブローカーが3人も座って待機していた。

                   

                  Good morning、皆さん、お早いですな、こっちはまだ半分寝てるのに」

                  「昨日、Big アナウンスがあったんだよ、川島がAntwerpにやってくるって」

                  「えらいこっちゃな、聞くだけでしんどいわ。他の部屋へ行こ」

                  と言って川島は、部屋を出て行きかけ、笑顔でまた直ぐに戻った。和んだ空気が流れ、川島にいつものペースがやってきた感じがした。

                   

                  ディアマンタル社がバイヤーとブローカーで活況を呈している頃、ミカエルはコディアム社のオフィスでアルノンと話をしていた。

                  「ミカエル、未熟なお前にこんなことを聞いても仕方ないことは分かってるけど、厳しい現状を如何にして切り拓くか、何かアイデアはないかな」

                  「うちの商品で売れているのはメレだけですから、扱うメレの種類を増やせば良いのではないでしょうか」

                   

                  「そうだな、現実的にお前が可能なのはそれしかないだろうな、そのためには資金が必要だ。それをどうやって・・・」

                  アルノンは立ち上がって窓際に行き、外を眺めながら久しぶりにロシア語でブツブツと独り言を言い始めた。窓ガラスに少し写った悩めるアルノンの顔が、酒に酔ったミカエルの父親と重なった。『兄弟じゃないのか?!』、突拍子もない思いがミカエルの頭の中で吹き上がった。しかし、この際そんなことはどうでも良かった。アルノンがミカエルの叔父であろうがなかろうが、コディアム社の置かれた状況は何一つ変わらなかった。ミカエルが不思議そうな表情で自分を眺めていることに気が付いて、アルノンはハッとして顔を引き締めた。そこにはもうミカエルの父親の面影は一切なかった。

                   

                  「お前、確か、リップワース氏に何度か声を掛けてもらったと言ってたな。彼を頼ってみようか」

                  アルノンは、ロシアもののCleanishDEFカラーのVVSVS)が20個から30個ほど入ったプラスティックのケースをいくつか金庫から出し、ミカエルの前に置いた。

                   

                  「これらのロットは何度もトライしましたけど、まるで値が付きませんでした」

                  「分かってるよ。そろそろ‘見切りどき’だと思ってね。ただし、あっちこっちで売ると目立つし悪い評判も立ちかねないし、また更に値下がりを呼んでしまうかもしれない。リップワース氏のお客さんにまとめて買ってもらおうと思う。早速に行ってくれ」

                  アルノンは、ミカエルにいくつか具体的な指示をして送り出した。

                   

                  10分後、ミカエルはディアマンタル社のリップワース氏の前に座っていた。リップワース氏はいつものように葉巻を灰皿に置いて、頭の後ろで両手を組んでミカエルの話を聞いていた。

                   

                  「キミの話は良く分かった。商品を見せてくれないか」

                   

                  ミカエルが立ち上がってリップワース氏の前の白いパッドの上にロシアもののCleanishのケースを並べた。リップワース氏はケースの上からザッとルーペで眺め、電卓で計算を始めた。時おり数字を書きつけては何度もやり直した。

                   

                  《Antwerp、とあるオフィスのボス(この写真はStoryとは一切関係ありません)》

                   

                  「荒っぽい計算だけど、もしこれらを全部売ったとしたら、合計30万ドルほどになる。一人のバイヤーに買わせるのは少しシンドイかもしれんな。まあでも、やってみよう。うちの手数料収入も半端じゃないし」

                  と言ってリップワース氏は笑い、葉巻を手に部屋から出て行って、また直ぐに戻って来た。後ろに日本人と思われるバイヤーを従えていた。二人が入室するなり、リップワース氏は、いつも開けっ放しになっているドアを閉じた。

                   

                  「川島さん、彼はブローカーではなくて、ある会社の社員だ。まだ若いけど有能なアソーター(ダイヤを品質によって分類する仕事をする者)でもある。彼のボスが、原価が高過ぎて値が合わなくなっているロシアもののCleanishを売りさばきたいということで、ここに数ロット持って来ている。見てやってはくれまいか。現状の市場価格よりも低い値段になるのは仕方ないところだけど、出来たら全部まとめて買ってやって欲しい。あっちこっちで売ってしまうと、いっそうマーケットが下振れしてしまうから、貴方一人にお願いすることなんだ。なんとか頼むよ」

                  「そりゃまあ、ロシアもののCleanishは日本のBridal市場に必要不可欠やからねぇ、なんぼでも買いまっせ。せやけど、うちも商売やし、甘いPriceは出せまへん。とりあえず、見てみんことにはなァ」

                   

                  川島は部屋の隅を見ながら何か考えているようだった。

                  「今日は無理かもしれへんな。初日やし、Long Flightで疲れた。明日にしよか」

                  「分かりました。出直します。時間を言ってもらったらその時間に来ます」

                  「ほな、朝一やな、9時」

                   

                  翌朝、845分、ミカエルはディアマンタル社のドアの前に立っていた。インタホンを鳴らしたが、まだ誰も来てないようだった。数分後、若い女子社員がやってきた。若いと言ってもミカエルよりは数歳年上に違いないに違いなかった。

                  「あら、ごめんなさい、待たせた?」

                  「いえ、ほんの少しだけです」

                   

                  Good morning

                  後ろから声がして、振り向くと川島だった。

                  「おはようございます」

                  「早いなあ、約束の時間より早よ来るもんがAntwerpにおったとはな。初めて見たわ」

                  川島は、日本人としは大柄で‘いかつい’顔つきだったが、英語はかなり上手だった。海外からのバイヤーと話しているうちに、若いミカエルの英語はかなり上達したが、まだまだボキャが不足していることを自覚していた。『分からない単語は直ぐに聞くなりして覚えろ』と、アルノンからは常に言われていたから、それは心掛けていたが、日本人のバイヤーのほとんどはミカエルと同程度か、それ以下の英語力で、彼らと接していても全く“学習”にはならなかった。川島からなら学べそうだとミカエルは内心喜んだ。

                   

                  「ちょっと待っててな、コーヒータイムや」

                  川島はオフィスのキッチンへ行ってネスプレッソのコーヒーマシンを素早く操作し、カップ片手に戻って来た。

                  「キミは歳いくつ」

                  18です」

                  「マジかよ。昨日、リップワースさんがキミのことを有能なアソーターって言うてたけど、一体いくつの時から業界におんねん?」

                  「もう5年になります」

                  「な、な、なんとまあ。ということは、親の仕事を手伝ってたんか?」

                  「いえ、そういう訳では・・・」

                  「何か‘いわく’が有りそうやな、聞かんとくわ」

                   

                  「ほな、Let’s Goや」

                  川島は腕まくりした。

                   

                  「値段の高い順に並べてくれ」

                  「単価(Price/crt)がですか?」

                  「分かり切ったこと聞くな」

                  Excuse me

                  これは厳しい道のりになるのだろうと、ミカエルは覚悟した。

                   

                      ―続く―

                   

                  | ukitama | - | 14:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  One Team?
                  0

                       

                        さゆる日のしぐれの後の夕山に

                        うす雪ふりて雲ぞ晴れ行く

                        

                    ―冷え込んだ日、時雨の降った後の夕山に薄く雪が降り積もった。今まで立ち込めていた靄(もや)や雲が晴れてゆく―

                     

                    これは、鎌倉時代後期の公家で歌人でもあった京極為兼の作。同時代の勅撰和歌集である『玉葉和歌集』に収められております。為兼さんの歌風は、写実的で、実感を尊び、繊細で感覚的な表現、と言われております。確かにこの歌も、解説を読まなくとも、歌意は分かりやすく、情景が直ぐにイメージできますね。そう言えば、12月に京都の北山あたりや嵯峨野で雪を見ると“こんな感じ”、なのではないかと。

                     

                    今年もあと二十日余りとなりまして、そろそろ色々と“焦り”が出て来ることかとドキドキしておりますよ〜・・・『ああ、まだだった、やってなかった、どうしよう、あれもあった、、、』と気忙しいですね。

                     

                    ・・・と言いつつも、

                    少し今年を振り返ってみたくなりました。

                     

                    先ごろ発表された『流行語大賞』、

                    先月にノミネートされていた30の候補を見ておりますと、今年起こった事がまたしっかりと蘇ってまいりますね、忘れたいことも多いですけど。「命を守る行動を」「計画運休」なんていうのは、これまで聞いたことがなかったですな。あっちこっちに災害が起こり過ぎて、政府や地方自治体も細々(こまごま)と国民や住民に気使っていられない?!

                    「軽減税率」の方が「消費税増税」よりもピンと来る。

                    「ホワイト国」、なんていうのもありましたね、これも聞くと隣国の様々な理不尽をまた思い出してホント疲れる気分で、嫌な気分になりますな。

                    「しぶこ」ね、ゴルフは全く興味ないけど、写真で見る彼女は誠に魅力的です。

                    『大賞』は「One Team」ですか、

                    ラグビー日本代表の活躍にはもう日本中が感動と感激の嵐で、ケチを付けたくはないのですけどね、

                    One Team」自体はそんなに“流行”したと思えまへん。

                    「にわかファン」の方が流行していたのではないかなと感じるし、

                    Not Release the Ball」というラグビー用語(反則の名称)の方がUKI的にはインパクトが強いし、いまだにあちこちで使われているという気がしております。

                     

                    しかし、ノミネートされた30の候補を再び見てみますと、

                    このうちの13に関して知識がない!

                    ということを発見いたしましたよ〜

                    UKI氏はかなり世情から取り残されている?!?

                    どう感じます、ご同輩。

                     

                    ところで、

                    流行語と言うとちょっと変と言いましょうか、‘そぐわない’という気がしますが、2019年のカラーダイヤ関連の流行語的なものと言えば何なると思いますか?

                     

                    34つは直ぐに思いつきますね〜

                    Argyle閉山」

                    Argyle鑑定書(付き)」

                    Fancy Blue

                    「純色Blue

                    ってなところかと。

                     

                    とにかく、皆さんは、素直じゃないと言うか、疑り深いと言うか、

                    ウッキーに信用がないということが一番大きいのでありましょうが、

                    高彩度のArgyle鑑定書付きのPinkダイヤや、

                    純色の綺麗なIntense BlueFancy Blueが、存在している時には見向きもしないで、市場から消えてしまってからワイワイと騒ぎ出すのですよね。毎度毎度、本当に毎度のことで、もう笑えてくるばかり〜

                     

                     

                    さて、今年一番のニュースと言えば、

                    『平成』⇒『令和』

                    これに決まっております。

                    ところがですな、5月や6月には上皇様のニュースを見て、まだ瞬間的に天皇陛下と思ってしまう習慣から脱せられずにおりましたね。それが秋も深まり、東京でパレードが行われてようやく馴染んできたと言ったら誠に失礼ながらも、新たな御世を実感すると言いましょうか、即位されたばかりの両陛下と「令和」がしっかりと結ばれて一つになった観があるような気がいたします。天皇陛下は教養はもちろんのこと、昭和天皇の厳かな品格と上皇様の庶民的な一面を持ち合わせておられて、令和の日本人が心より敬愛でき誇りに思う存在であらせられることは間違いないですね。

                    ひょっとしたら、そういう陛下に“甘えて”のジョークなのかもしれませんけども、

                    今朝のネットのニュースを見て唖然!

                    天皇陛下が日本山岳会の“年次晩餐会”とやらにご臨席、、、

                    都内の一流ホテルの宴会場に違いないであろう“ごく普通の席”につかれて、誰かのスピーチに拍手を送っておられるお姿の写真、

                    濃紺のスーツに白いシャツに臙脂のネクタイ、これまた“ごく普通”の格好をされているのですけも、

                    陛下の上着の左胸に何か名札のような物が付けられている・・・・・・

                    拡大してみますと、紛れもなく名札、

                    な、な、なんと、『天皇陛下』と書いてある!!

                     

                    日本山岳会はアホの集団か?!

                    山男って、ちょっとどころか、かなり変わっている存在と聞いておりましたが、ここまで常識はずれの事やりますか〜

                    このような無礼、奇異極まりないもの、ホント稀、

                    海外の元首クラスがどこかで名札付けてるの見たことありますか?

                    トランプみたいな人が付けてたらさぞやオモロイだろうけど、絶対に有り得ない!

                    全くどうかしている、

                    『ホンマ、調子に乗ってる』以外の何ものでもございませんな。

                    それでも陛下は、“されるがまま”、平然と名札を付けておられるというのは立派、流石としか言いようがありませんね。

                     

                    令和になって我々が学ばねばならないのは、陛下がお持ちのような“忍耐”なのかもしれません。

                     

                    忍耐と言って直ぐ、舌の根も乾かぬうちに言ってしまいそうですが、

                    カラーダイヤの品薄は深刻も深刻、

                    どうなるの?

                    という情況で暮れてゆく2019年です。

                     

                    現在の心境を、為兼さんの歌で表現〜

                     

                         閨のうへはつもれる雪に音もせで

                         よこぎる霰窓たたくなり

                     

                    しんしんと冷え込むなか、霰(あられ)に叩かれる窓の音に寂しさを募らせる日々・・・・

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    | ukitama | - | 17:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    ダイヤモンド今昔物語ーその6
                    0

                       

                          ―前回の続き―

                       

                      枯葉が舞い始めたと思ったらアッと言う間に真冬になった。Antwerpの冬は寒く冷たい。オランダほどではないにしろ、氷点下になることは日常だった。貧しい少年時代に厳しい冬の日を何度も孤独に過ごし、一時はホームレスにもなったミカエルは、自分も、『フランダースの犬』のパトラッシュやネロのように凍死してしまっていたのかもしれないと思い、拾ってくれたアルノンに改めて感謝の気持ちを抱いた。今は寒さとは無縁の生活である。現在では、どんな安アパートであろうと、セントラルヒーティングが義務付けられているのであった。全てのビルにはボイラーが設置され、循環ポンプにより各部屋に置かれたラジエーターに熱と温水を供給している。以前には服がなくて、冬も薄着で過ごしていたミカエルだったから、時には暖房に暑さを感じることもあった。しかしAntwerpの冬はやはり、寒く冷たかった。不景気風が吹き荒れていた。そんなダイヤモンド街の空気をいっそう冷やすような事件が起こった。

                       

                      メナヒム・コーヘンというブローカーがナイフを持った暴漢に襲われ、商品がたくさん入った鞄を強奪されたのであった。メナヒムは、命に別状はないものの、腹を切られて重傷を負った。ダイヤモンドの被害額は200万ドルにも上ると噂された。

                       

                      事件が起こったのは午後5時少し前。ダイヤモンド街のオフィスがその日の営業を終えるには少し早いが、電灯がないとほぼ闇の世界だった。被害者のメナヒムは、ダイヤモンド街の少しはずれの、ビルの陰に隠れて街燈の明かりが届かない暗い場所で襲われたと、病院に事情聴取に来た刑事に語った。

                       

                      強奪された合計約200万ドルと言われる商品の本来の所有者は3社であった。メナヒムは、25年以上もダイヤモンド街でブローカー稼業に徹し、何社かのオーナーから厚い信頼を得て、多額の商品を預かっていたのだった。もちろんダイヤモンド街の経営者たちは皆、盗難保険に入っていたが、鍵の掛かったオフィス内の持ち出し不可能なように固定された金庫に入れられている商品が盗まれた時にしか保険金は支払われず、このような事件では丸ごと全額の損失であった。盗られた商品は、0.2crtから1.0crtあたりのラウンドの無色透明の物がほとんどで、プラスティックのケースや紙包みのパーセルから出して類似品に混ぜてしまえば識別は困難であり、直ぐにAntwerpで流通させても発見される可能性は非常に低く、犯人の足どりも全く掴めていなかった。

                       

                      事件から2週間が経過し、メナヒム・コーヘンが退院した。メナヒムが肥満体であったことが幸いして、ナイフは、ぶ厚い脂肪を切り裂いただけで、内臓には達していなかったのだった。事件現場にメナヒムが立ち会い、事件当日の同時刻の模様が再現された。被害額は大きいものの、事件そのものはシンプルな強盗傷害と思われた。しかし、メナヒムの退院と時を同じくしてこの事件を担当することになったヤン・ロニーという一人の女刑事が、メナヒムの証言に、言葉にならない何やら嫌な雰囲気を感じ取っていた。ヤンはまだ若く独身であったが、警察学校を優秀な成績で卒業し、殺人傷害強盗などの凶悪犯を追う部署に抜擢されたのであった。また、彼女の両親はAntwerp中央駅近くでレストランを経営していたから、子供の頃からダイヤモンド街界隈に親しんでおり、ヤンが何か解決に導く端緒を見つけてくれるのではないかと警察幹部から期待されての“登板”だった。ヤンはまず、事件が起こったダイヤモンド街の西端付近に設置された監視カメラのビデオを見ることにした。ダイヤモンド街を運営管理する委員会は、監視カメラが世に登場した1960年代に直ぐさま導入して、街路の数か所に設置していた。しかし、それらは新しい物に取り替えられることなく、当初のままであったから、暗い中の出来事を鮮明にとらえることは出来ず、映像からは誰もハッキリとしたことを見つけられずに2週間が経過していたのであった。

                       

                      ダイヤモンド街には、東西2か所の出来入口ゲートがあり、車両の出入りは制限され、西端の方は大通りに近いためにPolice Boxがあって、午前7時から午後7時までは警官が常駐していた。Police Boxは笑えるほどに小さかった。軽自動車ほどの大きさしかなく、大柄な警官が窮屈そうに座っていることも多かった。犯行は大胆にも、なんとこのPolice Boxから10メートルも離れていないところで行われたのであった。犯行が起こった時刻にPolice Boxにいた警官は、無線連絡に気を取られて何も見えず、どんな音も聞かなかったと言う。ビデオには、メナヒムと思われる影が、いきなり映り込んで来てPolice Boxの警官に助けを求める様子があるだけだった。メナヒムが映像に入って来た方向は、完全に警官の背後であり、監視カメラからも死角となっていた。メナヒムが言うには、目出し帽を被った二人組の暴漢がいきなり目の前に現れ、一人に口を塞がれて身体の自由を奪われ、もう一人の者に殴られ昏倒させられて商品が入った鞄を奪われたのであった。二人組はダイヤモンド街とは反対方向へと走り去った。メナヒムがPolice Boxの警官に助けを求めたのはその時ではなく、少し後だった。メナヒムは鞄を強奪されたあと、直ぐに立ち上がって二人を追いかけ、Police Boxから100メートルほどのところにある公園で追いつくことが出来たが、その瞬間にナイフで切られたのであった。

                       

                      ヤンは、犯人たちの逃走経路に疑問を持った。

                      Police Boxの警官の背後にある路地を逃走に選ばず、警官の視覚に入る可能性の高い表通りを逃げたのはどうも解せません。どうしてだと思いますか、コーヘンさん」

                      「細い路地の存在を知らなかったのでしょう」

                      Police Boxの直ぐそばでの大胆な犯行ですよ、土地勘がないと出来ないと思いますが」

                      「公園の反対側の出入り口付近に逃走用の車を置いてあったから、そこまでなるべく早くに行きたかったのでは」

                      「ところで、コーヘンさん、画像に写っているあなたの行動を推測すると、公園からPolice Boxへ戻って来る時に、広い通りを来なかった。それはちょっと不自然ではないかと思うのですが」

                      「腹を切られて死ぬかもしれない時に、自分がどんな道を通るかいちいち考えないでしょう、とにかく言葉通り必死だったのです。しかし、どうして私がそんな風に問い詰められないといけないのか、全く理解できないですよ、刑事さん」

                      「失礼しました、疑問点を一つ一つClearにして行くことが捜査の定石ですので」

                       

                      全く不思議なことに、犯人たちの目撃情報は皆無であり、犯人の物と推測される遺留品も見つからず、コーヘンが走ったりしている姿を見た人もいなかった。暗いとは言え、ダイヤモンド街のゲート近くに歩行者もいたはずだし、車やバイク、自転車も普通に走っている時間だった。また、犯人は逃走用の車を公園の反対側に駐車していたとコーヘンは推測していたが、公園の周囲で聞き込みをしても、怪しげや二人組を見たと言う人はいなかった。犯人は煙のように消え去ったのだった。

                       

                      犯行当時にPolice Boxに勤務していた若い警官は、何も見ず何も聞かなかったことを上司から激しく責められ憔悴していた。ヤンは彼に特別な感情は持っていなかったが、可哀想に思って何とかしてあたいと思った。ひょっとしたら、Police Boxの警官が不注意で何も見ることができず何も聞こえなかったのではなくて、メナヒム・コーヘンが彼に助けを求めるまでPolice Box周辺では“何も起こっていなかった”のではないのかと、ふと感じた。二人組の暴漢に襲われ殴られ昏倒したメナヒムが、追いかけて、100メートル先で追いつけるものなのか、しかもメナヒムは腹を切られても脂肪を削がれただけの肥満体である。公園の手前には片側2車線の車道があって、中央分離帯には大きな樹木が密に繁っている。その間をすり抜けて公園に入って犯人たちは‘ひと安心’したということかもしれないが、約100メートルという距離は決して安堵できるものではないだろう。

                       

                      これは狂言強盗ではないのかとヤンは考えるようになった。もしそうであったなら、100メートル先の公園はどんな意味があるのか。Police Boxの警官の背後を30メートルほど行ったところに、かなり以前から荒れた広い更地があって、建設資材が少し置かれている場所がある。犯人たちが逃走用の車を置くとしたら、そこの方が好都合だったのではないかと思う。メナヒムが公園まで行って帰ってきた理由は何なのか、ヤンは、よく遊んで思い出もいつくかあるその公園の中を何度も歩き回って考えた。広い公園だった。面積はサッカー場ふたつ分くらいであろうか。色彩こそ特に豊富ではなかったが緑豊かで、一つの森が整備されて公園になったものと思われた。池も3つあり、それらは歪(いびつ)な形で、長さが20メートルから30メートルほど、幅が15メートルほどあった。池の中やそばには、たくさんのガチョウがいて喧しく、臭いも気になったから、昼間でも池のそばで遊んだり寛いだりする人はいなかった。明るいうちの公園風景を見ていてもダメなのかもしれないとヤンが考えているところに、ひとりの日本人らしき男が通りかかった。男はムツッとして表情を変えずにヤンの近くを歩き去った。ヤンは、1カ月ほど前に見た日本の『サムライ映画』を思い出した。ヤンの頭の中に閃光が走った。

                       

                      「そうだ、池の中だ!」

                       

                      突然ヤンは叫んで走り出し、パトカーに乗って警察署に戻った。

                       

                      「警部、公園の池を浚って(さらって)みましょう」

                      「おい、ヤン、何を言い出すんだ、いきなり」

                       

                      ヤンは、メナヒム・コーヘンは暴漢に襲われたのではなく、ダイヤモンドをどこかに横流しした後、公園で自分の腹を切り、ナイフを公園の池に投げ捨て、ダイヤモンド街の西端のPolice Boxのところまで戻って来たに違いないという推理を述べた。

                       

                      「ナイフが見つかれば、全てが解決します」

                      「見つからなければ?」

                      「いえ、絶対に池の中にあります!」

                      「しかし、ヤン、キミの説が正しいとするならば、この事件は強盗傷害ではなくて、単に下らん横領、ダイヤモンド街のつまらぬスキャンダル、ということになる。全く皮肉なことだが、そんなものに大勢の署員を動員する訳にはいかんよ。キミ一人でやりたまえ」

                       

                      警部に言われてみれば全くその通りだった。大騒ぎしてネズミ一匹。少し馬鹿らしくなったが、事件の折りPolice Boxに勤務していた若い警官のルシアン・ジルベールを救ってやらねばと思い直した。ルシアンは事件の後、外に出ることを許されず、留置場の鍵管理のような閑職を命じられていたのだった。

                       

                      「警部、ルシアンに手伝ってもらってもよろしいでしょうか?」

                      「そうだな、それは認めよう。それと、金属探知機を忘れないようにな」

                       

                      公園の池と言っても半端ではなかった。ヤンは子供の頃からこの公園に馴染んではいたけどけれど、ガチョウがたくさんいる臭い池の中に入ったことはなかった。池の中がこれほど過酷なものだとは想像していなかった。ヤンとルシアンは、頭から全身を覆うウエットスーツを着てゴーグルとシュノーケルを装着した完全防備で水に入ったが、慣れないことでもあり、気持ち悪さは拭いがたかった。それでもヤンは、コーヘンがナイフを捨てた場所をある程度は特定できていると確信し、ナイフの発見にはさほど時間を要するとは思っていなかった。

                       

                      Antwerpの冬の日は短い。午前8時でもまだ深夜と変わららぬ暗さだった。そして午後4時にはまた暗くなってしまうから、午前9時くらいから午後3時くらいまでしか時間がなかった。何度も金属探知機が反応して、その度に胸が高鳴ったが、つかみ上げてみると金属のパイプだの大きな空き缶だのとロクでもない物ばかりだった。芝生の上でサッカーをして遊んでいた小学生たちが物珍しそうに集まってきた。

                       

                      「お姉さんたち、何してんの?」

                      「私たちは警察官よ。悪い人が投げ捨てていったナイフを探しているの」

                      「な〜んだ、つまんない」

                      「キミたち、2週間ちょっと前の夕方暗くなってから、この公園の中とか近くで怪しい男を見なかった?」

                      「暗くなってからは遊ばないよ」

                      「そうよね。もし誰か見たって言う人がいたら警察に知らせてね。私はヤン、このお兄さんはルシアンよ」

                       

                      一心不乱に池の中を探し回っているうちに、気が付いたらかなり暗くなっていた。その日はもう諦めるしかなかった。どこか見当違いをしているに違いないと思った。この辺りが完全に暗くなるまで待って、事件当時の環境に少しでも近く迫ろうとヤンは考えた。時計の針が午後5時を指した瞬間、ヤンは池の周囲を注意深く観察した。当初、一番有望と考え、この日の捜索を行った一番大きな池の周囲は、近くのホテルの明かりで夜でも思いのほか明るいということが分かった。逆に、一番小さな池の周囲が非常に暗く感じられた。明日はここだと思い定めた。

                       

                      翌日は土曜日だった。前日と同様にヤンとルシアンは、きっかり9時に池の中に入った。前日に暗闇の中で目を付けたポイントに金属探知機を向けた。何の反応もないままに1時間ほどが経過した。『今日もダメだったら大恥をかくことになる』とヤンの心は穏やかではなかった。その時、少年のヤンを呼ぶ声が聞こえてきた。

                       

                      「おねえさん、いや、おまわりさん、うちの兄ちゃんが話があるって」

                      「是非聞かせて」

                      「実はですね、僕、見たかもしれないんですよ、悪い奴を」

                       

                      ヤンは池から出て兄弟の方へ歩んだ。ウエットスーツに付いた悪臭が臭うのか、兄弟は23歩後ずさりした。

                      「あっ、ごめんなさい。少し離れましょう。お話聞かせて」

                       

                      2週間ちょっと前の午後5時くらいだったと思います、正確な時間は覚えていません。友達と約束していて、遅れそうになったものですから、自転車で公園の中を横切ったんです。そしたら、この池の近くのそのあたりで・・・」

                       

                      「向こうから走って来たのですけども、このあたりまで来た時に、何やら呻き声が聞こえたと思ってビックリして自転車の速度を落としたんですね、そしたら、何か光る物が空中を飛んで池の中に落ちたのが見えて・・・」

                       

                      「ほとんど真っ暗なのに光っているのが分かったの?」

                      「ここは暗い時に何度も通ってますけども、この池の真ん中あたりはいつも照明が当たってるんですよ。だから、その光る物が落ちた場所もほぼ正確に言えます」

                       

                      ヤンは小躍りしたくなった。兄が指し示すあたりに金属探知機を向けた。5分ほど経過した時、ルシアンの方に鋭い反応があった。水の中に手を伸ばし、泥の中をさぐっていると確かに捕まえたという感触があった。ゆっくりと水から引き揚げた。刃渡り10cm弱のジャックナイフだった。

                       

                      ナイフは早速、鑑識に回された。浅く泥の中に沈んでいたことで、血液と指紋も完全に消えてしまうことなく採取することが出来た。両方ともメナヒム・コーヘンのものと一致した。鑑識は、ジャックナイフを逆手で強く握ったとみられる指紋が付いていたと語った。コーヘンが『サムライのハラキリ』を真似たに違いなかった。

                       

                      メナヒム・コーヘンはハラキリの後、公園周囲の目立たぬところに停めてあった車に乗ってPolice Box近くの更地に移動し、そこから這うようにしてPolice Boxのルシアンに助けを求めた、というのが警察の公式見解だった。事件は、業務上横領ということで、ヤンとは別の部署に回された。

                       

                      下らぬ事実が判明したが、ヤンは大いに面目を施し、ルシアンは名誉を回復した。ただし二人は数日の間、署内で『臭い、臭い』と嫌がられた。お手柄の兄弟は警察署長から表彰され、それはAntwerpのローカル紙に掲載されたが、事件の核心部分はぼかされ、ダイヤモンド街からの圧力によって全くと言って良いほど報道されなかった。いずれにしても、200万ドルの行方は全く分からないままだった。

                       

                      クリスマス近くになって、メナヒム・コーヘンは起訴され、それでも罪状を否認し続けているという話が伝わってきたが、そんなことはダイヤモンド街の大半の人にとってどうでも良かった。ミカエルとアルノンにとって本当の冬はこれからという気がしていた。

                       

                           ―続く―

                       

                       

                       

                       

                      | ukitama | - | 15:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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